永井豪天才マンガ家の作り方教えます! 永井豪、初の自伝的エッセイ 豪氏力研究所
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仕事仕事、また仕事 今だったら、過労死するマンガ家が出てもおかしくない。でもこの当時の人は、不思議と死ななかった。そしてみんな、「ついてこられないヤツは、マンガ家を辞めればいい」と思っていた。特に僕は、石森先生の影響を受けていたので、マンガ家とはそういうものだと思っていたし、これくらい仕事をやっていないと、マンガ界では生き残れないと思っていた。


月の締め切り、30本
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初めてのグアム旅行で。たぶん1971年。
『ハレンチ学園』が大ヒットして、ますます仕事の依頼が僕に殺到するようになった。そして、僕の仕事量はものすごいことになった。今手元に、これまでの作品を年代別に整理した資料がある。デビュー30周年(1997年)に作ったものだ。ちょっと見てみよう。

 デビューから1年少したった1969年、この年の2〜3月は、週刊誌2誌を含め月に10作品を描いている。つまり、月に16〜18回の締め切りがあったということだ。仕事量のピークは、デビューから約2年後の1970年の1月で、少年誌少女誌合わせて、週刊誌5誌を含め月に11作品。締め切りにして30回以上あったのではないだろうか。ほとんど毎日が締め切りだったということだ。

 われながら恐ろしい仕事の量だ。当時は5つの週刊少年漫画誌(『週刊少年マガジン』『週刊少年チャンピオン』『週刊少年ジャンプ』『週刊少年サンデー』『週刊少年キング』)があったが、いっそのこと全部で連載をしてやろうと思いつき、ついに1972年、それを達成した。だからこの頃、プライベートは何もなかった。遊びに行くといっても、仕事のスタッフとばかり。それも、徹夜明けで朝から映画を観に行って、仕事場に帰ってちょっと仮眠して、また仕事。旅行なんか行くヒマはない。それでもお正月だけはちょっと休みが取れたので、年に1回だけ、スタッフとハワイやグアムに行ったりした。

 他に息抜きというと、ゴルフだろうか。編集者に「健康のために、ゴルフくらいやったほうがいいよ」と言われて、そういえば運動してないなあと思い、始めることにしたのだ。道具を買いに行くヒマがないので、マネージャーに頼んでクラブ一式を買ってきてもらったら、編集者にいきなりゴルフ場のコースへ連れていかれた。でも、ゴルフとは一体何をどうするスポーツなのかわからない。「これ(ティー)を土に刺して、ボールを乗せて打つんです」と教わり、クラブを出そうとバッグを開けると、全部まだ包装したまま。みんなに手伝ってもらって、あわてて包み紙を1本1本剥がした。

 1ラウンド回ってルールを覚え、ようやくゴルフってなかなか面白いもんだなとわかった。それで、兄弟やアシスタントに一緒にやろうと勧めたら、みんなはまってしまった。彼らはそれから、ちょくちょくゴルフ場に出かけるようになったのだが、当の僕は忙しくてゴルフに行く時間が作れない。それでずいぶん悔しい思いをしたものだ。ちょっと時間に余裕ができた今は、ゴルフにちょくちょく行けるようになった。これが何より嬉しい。

 さて、当時の1日は、こんな感じだ。仮眠を終えて起きると食事をし、外へ出かける。部屋の中にいると眠くなるし、陽に当たると眠気が取れるような気がするからだ。近所の喫茶店に入って、コーヒーを飲みながらネームをやる。だんだん眠くなってくる。喫茶店を出て、また歩く。歩いていると、とりあえず寝ないからだ。そして別の喫茶店に入り、コーヒーを飲みながらネームの続きをやる。これを何回か繰り返すと夕方になり、ネームができ上がる。そこでようやく、仕事場に帰る。アシスタントたちも、僕がネームをやっている間は、昨日の原稿の続きを描いているから、ほとんど寝ていない。「さあ、やるぞー!」とみんなにハッパをかけて、原稿描きに入る。それは朝まで続くのだ。


覚醒剤常習犯(?)の先輩も
 そういうわけで、当時1日の睡眠時間は平均1時間くらいだった。1週間に1日くらい、なんとか眠れる日を作り、その日は10〜20時間寝て「寝だめ」した。僕は体力には自信があったので、眠いときもコーヒーを飲むくらいで、眠気を覚ます薬や栄養剤は特に必要なかった。だが先輩マンガ家の中には、薬を常用している人もいたらしい。覚醒剤撲滅の政府CMがあるが、ある先輩はそのCMを見て「コレをやれなくなったら、マンガ家やってられないよなあ」と怒った。「そ、そうなんですか?」と僕がおそるおそる聞くと、「効くんだぜ、いっぺんに目が覚める」と真面目な顔で言っていた。冗談だとは思うのだが、とにかくそれくらい、マンガ家の生活はハードだったのだ。

 今だったら、過労死するマンガ家が出てもおかしくない。でもこの当時の人は、不思議と死ななかった。そしてみんな、「ついてこられないヤツは、マンガ家を辞めればいい」と思っていた。特に僕は、石森先生の影響を受けていたので、マンガ家とはそういうものだと思っていたし、これくらい仕事をやっていないと、マンガ界では生き残れないと思っていた。それに、「一度仕事を断ったら、その雑誌は二度と描かせてくれないんじゃないか」という、強迫観念にとらわれていた。ずいぶん後になって、そうではないということが、ようやくわかった。つまり、いい仕事をしていればまた声をかけてくれるものだし、逆に、いくら頑張っていても、ダメになったらそれまでなのだ。

 自分で言うのもなんだが、当時は「永井豪さえ描かせれば、雑誌は売れる」という状況だった。だから、あらゆる雑誌の編集者が僕の仕事場に来て、なんとか原稿を描かせようとした。『あばしり一家』(週刊少年チャンピオン)は、忙しいからと何度断っても編集者が来るから、しまいには「断るのに時間を潰されるくらいなら、描いたほうが楽だ」と思って始めた作品だ。描き始めてみたら面白かったし、いい作品になったと思うけれど。何でも仕事を引き受けたせいで、他のマンガ家たちに「描きすぎじゃないの? なんであんなに描くんだよ」と、嫌味を言われることもあった。一人で週刊誌5誌と月刊誌6誌とか、何人分もの仕事をしていたから、それも仕方ないのかもしれない。

 デビューから1年ちょっとで、僕はいわゆる人気絶頂状態になっていた。ほとんどあらゆる雑誌で作品を発表していて、描いた作品はどれも人気作品となった。でも、僕はその状態に、決して浮かれてはいなかった。誰にも言わなかったが、マンガ家としての自分の将来に、すでに危惧を感じ始めていたのだ。そこで、仕事を頼みにくる編集者に、僕は必ず“あるお願い”をした。しかし、なかなかそれは叶えられなかった。早く願いを叶えなきゃと、僕は内心、焦り始めていた。その僕の願いとは何かについては、また次回。

<第23回/おわり>

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