『ハレンチ学園』で全国のPTAを敵に回し、『デビルマン』で宗教世界を転覆させ、『マジンガーZ』で巨大ロボットアニメを生み出し、『キューティーハニー』でおたく文化の教祖に。デビュー以来35年、常にマンガ界に革命を起こし続けてきた巨人・永井豪とは何か? 創作のヒミツと七転八倒のマンガ家人生が、いま初めて明らかになる! |
僕が生まれたのは、石川県の輪島市。弟もそうだ。だけど3人の兄は、全員中国の上海生まれ。なぜかというと、当時父(芳雄)が、僕が生まれる直前まで上海で貿易商を営んでいたからだ。僕の生まれ年は1945年。そのとき太平洋戦争は末期を迎えていた。上海の情勢も悪くなってきており、しかたなく父は一家で引き揚げを決意する。事業の整理のために、父はぎりぎりまで上海に残る必要があったので、母だけが僕の入ったお腹を抱え、兄3人を連れて引き揚げ船に乗った。 上海からの引き揚げは、かなり危険な旅だったらしい。ロシアやアメリカの潜水艦が、日本の船と見るや、民間の輸送船だろうと何だろうと魚雷を撃ってきた。現に兄たちは、自分たちの前を進んでいた日本の船が撃沈されるのを見ている。母と3人の兄の乗った船は、危険を避けるために遠回りに遠回りを重ね、なんとか福岡で上陸に成功した。そして、親戚を頼ってはるばる輪島へたどりつき、僕を出産した。生まれたのは、終戦から1ヵ月もたたない9月6日。だから僕は、「生まれは輪島、種付けは上海」ということになる。 引き揚げ船では、いつ魚雷を受けて死ぬかわからない状況だった。母も兄たちも、気の休まるひまなどなかったらしい。この時、僕は母のお腹の中にいたわけで、もちろん何も覚えているわけがない。でも、一種の胎教みたいなものだろうか、母の恐怖の数日間は、僕の幼い頃の性格に明らかに影響を及ぼしたようだ。 というのは、僕は幼い頃、非常に用心深い子供だったのだ。当時の輪島市の大通りは、車なんて滅多に通らない。ごくたまに遠くから車がやってくるような時、僕は車が見えたが最後、絶対に道を渡らなかったらしい。「まだ来ないから大丈夫だよ!」といくら兄たちが言っても、頑として聞かずに、車が通り過ぎるまで待っていたそうだ。危険に対して、異常に敏感だったのだ。 さらに、海を極端に怖がった。父がなんとかして泳ぎを覚えさせようと、僕を海まで無理矢理引っ張って行っても、必ず途中で逃げ出した。これもやはり、母の胎内で体験した“海に対する恐怖”のせいだと思う。だから僕がようやく泳ぎを覚えるのは、高校生になってからのことだ。せっかくきれいな海に囲まれた輪島に生まれたのに、子供の頃海で遊んでいないなんて、今にして思えば本当にもったいないことをした。 |
ところで実は、父は当時上海でも指折りの資産家だった。どのくらいかというと、不二越と肩を並べるくらいだというから、つまり“財閥級”だ。関東軍に飛行機を何機贈ったとか、自動車を何台買ってやったとか、中国にわたってきた日本の有名人に援助してあげたとか、父にはよく聞かされた。 父が上海に渡ったのは、本当に偶然だったらしい。父がまだ20代で独身のときのこと。ある日、上海で商売をやっている叔父さんから手紙が来た。お前に会社を継がせてやるから来い、というのだ。父は喜んで上海に渡った。ところが着いてみてビックリ、叔父さんの会社は借金まみれで倒産寸前だったのだ。だまされたみたいなものだが、父はせっかく来たのだからと、そのまま会社を引き継いだ。そしてアッという間に借金を完済、さらに事業を広げ、十数年後には巨大な財産を築き上げてしまったのだ。 父は上海で、食器や医療器具の工場などをいくつも所有していた。そしてそこで作った商品を売るために、中国の奥地にまでトラックを連ねて遠征した。当時の中国は、ちょっと街を離れると、馬賊は出るわ虎は出るわという状況だったので、銃を持った護衛の人たちを連れて商売に行ったという。馬賊といえば、有名な日本人馬賊の小日向白朗[こひなた・はくろう]にも会ったことがあるそうだ。 しかし、日本が戦争で敗色濃厚になると、工場から家屋敷から、全てを手放して帰国しなければならなくなった。もちろん、日本に運べる財産もあったのだが、父は「中国で儲けたものは、全部中国へ返すんだ」と言って、全財産を上海に置いてきた。そういう人だった。引き揚げの時、父の金庫には関東軍に買わされた大量の軍票(軍が発行する紙幣代わりの有価証券)があったが、父は上海を離れる前に、それを全部燃やしてご飯を炊いて食べたそうだ。今のお金で言うと、何億円のご飯ということになる。 だから、父は日本に帰って来たときは無一文で、ものすごい苦労をした。当然、子供の僕たちも苦労をした。父は全財産を失ったあとしばらくは虚脱状態で、数年間は何もしないでぼうっとしていた。しかし、やがて父は輪島から単身東京へ出て、僕たちに仕送りをするために、またがむしゃらに働き始めた。本当にタフな人だった。 僕も、漫画家になることしか考えず、一所懸命に頑張ってきたし、なった後は、ダイナミックプロという会社を興して、ここまでがむしゃらにやってきた。思えば、サラリーマンになろうとは、一度も考えなかった。やっぱりこれは、上海で波瀾万丈の人生を送った父の血なのだろう。 <第1回/おわり>
(c)永井豪/ダイナミックプロダクション2002 (c)Go Nagai/Dynamic Production Co., Ltd. 2002 |
|
|