東京での授業はどれもこれも、僕には英語の授業のように思えた。東京のほうが、輪島よりはるかに内容が進んでいて、さっぱり授業についていけなかったのだ。教科書も、輪島のものとは全然違っていた。試験があると、いつも真ん中より上にいったことがなかった。だから僕は、小学校の3年生くらいまで、自分は劣等生なんだと思っていた。 |
輪島から東京に引っ越すとき、今でもものすごく心残りなことがある。それは、あんなに大事にしていたマンガの本を、全部置いてきてしまったことだ。特に手塚先生の本は、絶対に手放したくなかった。でも当時は運送屋もほとんどなく、荷物は手に持てるだけのものを、汽車で運ぶしかなかったのだ。小学校1年生の僕は、親についていくだけだった。 よく考えると、父も全財産を上海に置いてきていた。引き揚げのときには、一番上の兄貴も同じようなことをやっていた。大事な切手のコレクションを、全部上海に置いてきたのだ。どうやら、また上海に戻るもんだと思っていたらしく、兄貴はものすごい数の切手を、自分の宝の隠し場所にしまい込み、そのまま引き揚げ船に乗ってしまったのだ。こうなると、もう、そういう家系だというしかない。 また一番上の兄貴は、全巻揃えていた『キネマ旬報』も、結婚するときに全部売ってしまった。戦後すぐからだから、17〜18年分あっただろうか。几帳面な人で、年代順にきれいに整理していたのに。僕は「売らないでよ」と粘ったのだが、新居のアパートは狭いし、結婚資金も乏しく、奥さんにも「売りなさい!」と言われたらしい。『キネマ旬報』といえば、SF作家の筒井康隆さんが、300万円も出してバックナンバーを揃えたことがある。当時筒井さんを知っていれば、ねえ。僕のマンガの本も、今持ってたらいくらになったか。『メトロポリス』と『ロストワールド』だけでも、あなた。 東京に着いたのは、ちょうど学校が夏休みに入った直後だった。初めての学校生活だったから、僕は夏休み中だということがわからず、東京では学校に行かなくていいんだと思ってしまった。東京には従兄弟がいて、上野動物園やいろんな楽しい場所に、毎日のように連れていってくれた。僕は「ああ、なんて東京はいい所なんだろう」とすっかり舞い上がった。やがて9月になり、やっぱり学校に行かなくちゃならないと知って、僕は呆然とすることになる。 |
東京での授業はどれもこれも、僕には英語の授業のように思えた。東京のほうが、輪島よりはるかに内容が進んでいて、さっぱり授業についていけなかったのだ。教科書も、輪島のものとは全然違っていた。試験があると、いつも真ん中より上にいったことがなかった。だから僕は、小学校の3年生くらいまで、自分は劣等生なんだと思っていた。 ところが、小学校4年生になり、明日が試験だという日。同級生が「ああ、試験勉強しなくちゃ」というのを聞いて、僕は驚いた。「試験勉強って、なに?」。みんなやってるよ、試験に出る範囲のところを勉強するんだよ、という返事を聞いて、僕はまた驚いた。みんな、そんなズルいことをやっていたのか! 家に帰って、教科書だけでも読んでみようと思い、さあっと目を通した。そうしたらそのときの試験で、僕はいきなりクラスで3番になってしまった。みんなこんなことをやっていたのか、じゃあ誰にだってできるじゃないかとわかり、それ以来僕は、常にクラスでも上位にいるようになった。 それでも僕は、基本的に学校の勉強が好きじゃなかった。マンガが大好きだったので、教科書もノートも自分で描いたマンガだらけにしていた。そして、この頃からどこかで、自分はほかの人から外れていくんだろうと感じていた。こうなったのは、一つには母が自由放任主義だったこともあると思う。僕が勉強もせずにマンガばかり描いていても、何でもOKの人だった。父は、兄貴たちによると厳しい人で、よく殴られたりしていたらしいが、僕は小さかったのであまり叱られた記憶はない。その代わり、好きなことを見つけて、それをやりなさいといつも言われていた。何しろ、自分が波瀾だらけの人生を送った人なのだ。 というわけで、僕は東京にきても、勉強もせずマンガばかり描いてすごした。そして小学校の低学年から、すでに自分はマンガ家になるんだと決めていた。当時は、マンガ家なんてとんでもないという風潮だったから、口に出して言ったりはしなかったけれど。 <第3回/おわり>
(c)永井豪/ダイナミックプロダクション2002 (c)Go Nagai/Dynamic Production Co., Ltd. 2002 |
|
|