永井豪天才マンガ家の作り方教えます! 永井豪、初の自伝的エッセイ 豪氏力研究所

12色のクレヨンと東京へ 東京での授業はどれもこれも、僕には英語の授業のように思えた。東京のほうが、輪島よりはるかに内容が進んでいて、さっぱり授業についていけなかったのだ。教科書も、輪島のものとは全然違っていた。試験があると、いつも真ん中より上にいったことがなかった。だから僕は、小学校の3年生くらいまで、自分は劣等生なんだと思っていた。


東京はなんていい所!
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坊主頭が永井豪氏。奥の二人が兄、手前が弟。
 僕は輪島の小学校に入学した。ところが夏を迎える頃、突然輪島を離れることになった。父の住む東京へ、みんなで移り住むことが決まったのだ。だから輪島の小学校には1学期だけしかいなかったけれど、その学校でとても優しい女性の先生と出会った。先生は、僕が東京へ行くとわかったとき、わざわざ僕の家に来て、「君は絵が上手いから」と言って12色のクレヨン一式をくれた。本当に嬉しい思い出だが、なぜ先生が僕によくしてくれたのか、今もわからない。ともかく僕は、その後そのクレヨンで、たくさんの絵を描いた。

 輪島から東京に引っ越すとき、今でもものすごく心残りなことがある。それは、あんなに大事にしていたマンガの本を、全部置いてきてしまったことだ。特に手塚先生の本は、絶対に手放したくなかった。でも当時は運送屋もほとんどなく、荷物は手に持てるだけのものを、汽車で運ぶしかなかったのだ。小学校1年生の僕は、親についていくだけだった。

 よく考えると、父も全財産を上海に置いてきていた。引き揚げのときには、一番上の兄貴も同じようなことをやっていた。大事な切手のコレクションを、全部上海に置いてきたのだ。どうやら、また上海に戻るもんだと思っていたらしく、兄貴はものすごい数の切手を、自分の宝の隠し場所にしまい込み、そのまま引き揚げ船に乗ってしまったのだ。こうなると、もう、そういう家系だというしかない。

 また一番上の兄貴は、全巻揃えていた『キネマ旬報』も、結婚するときに全部売ってしまった。戦後すぐからだから、17〜18年分あっただろうか。几帳面な人で、年代順にきれいに整理していたのに。僕は「売らないでよ」と粘ったのだが、新居のアパートは狭いし、結婚資金も乏しく、奥さんにも「売りなさい!」と言われたらしい。『キネマ旬報』といえば、SF作家の筒井康隆さんが、300万円も出してバックナンバーを揃えたことがある。当時筒井さんを知っていれば、ねえ。僕のマンガの本も、今持ってたらいくらになったか。『メトロポリス』と『ロストワールド』だけでも、あなた。

 東京に着いたのは、ちょうど学校が夏休みに入った直後だった。初めての学校生活だったから、僕は夏休み中だということがわからず、東京では学校に行かなくていいんだと思ってしまった。東京には従兄弟がいて、上野動物園やいろんな楽しい場所に、毎日のように連れていってくれた。僕は「ああ、なんて東京はいい所なんだろう」とすっかり舞い上がった。やがて9月になり、やっぱり学校に行かなくちゃならないと知って、僕は呆然とすることになる。


僕はマンガ家になるのだ!
 東京での授業はどれもこれも、僕には英語の授業のように思えた。東京のほうが、輪島よりはるかに内容が進んでいて、さっぱり授業についていけなかったのだ。教科書も、輪島のものとは全然違っていた。試験があると、いつも真ん中より上にいったことがなかった。だから僕は、小学校の3年生くらいまで、自分は劣等生なんだと思っていた。

 ところが、小学校4年生になり、明日が試験だという日。同級生が「ああ、試験勉強しなくちゃ」というのを聞いて、僕は驚いた。「試験勉強って、なに?」。みんなやってるよ、試験に出る範囲のところを勉強するんだよ、という返事を聞いて、僕はまた驚いた。みんな、そんなズルいことをやっていたのか! 家に帰って、教科書だけでも読んでみようと思い、さあっと目を通した。そうしたらそのときの試験で、僕はいきなりクラスで3番になってしまった。みんなこんなことをやっていたのか、じゃあ誰にだってできるじゃないかとわかり、それ以来僕は、常にクラスでも上位にいるようになった。

 それでも僕は、基本的に学校の勉強が好きじゃなかった。マンガが大好きだったので、教科書もノートも自分で描いたマンガだらけにしていた。そして、この頃からどこかで、自分はほかの人から外れていくんだろうと感じていた。こうなったのは、一つには母が自由放任主義だったこともあると思う。僕が勉強もせずにマンガばかり描いていても、何でもOKの人だった。父は、兄貴たちによると厳しい人で、よく殴られたりしていたらしいが、僕は小さかったのであまり叱られた記憶はない。その代わり、好きなことを見つけて、それをやりなさいといつも言われていた。何しろ、自分が波瀾だらけの人生を送った人なのだ。

 というわけで、僕は東京にきても、勉強もせずマンガばかり描いてすごした。そして小学校の低学年から、すでに自分はマンガ家になるんだと決めていた。当時は、マンガ家なんてとんでもないという風潮だったから、口に出して言ったりはしなかったけれど。

<第3回/おわり>

(c)永井豪/ダイナミックプロダクション2002
(c)Go Nagai/Dynamic Production Co., Ltd. 2002



永井豪(ながい・ごう)
1945年9月6日、石川県輪島市に生まれる。石ノ森章太郎氏のアシスタントを経て、'67年『目明かしポリ吉』でデビュー。'68年『ハレンチ学園』を連載開始、たちまち大人気を博し、以後現在に至るまで、幅広いジャンルの作品を大量に執筆し続けている。代表作は『デビルマン』『マジンガーZ』 『凄ノ王』『キューティーハニー』など多数。


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