今週は『豪氏力研究所』スペシャル! 今年傘寿(80歳)を迎えた超ベテランマンガ家水木しげる氏との対談をお送りします。永井豪氏が悪魔の伝道師なら、水木しげる氏は妖怪世界のスポークスマン。この“悪魔vs.妖怪対談”は、東京郊外にある水木氏の事務所で、妖怪グッズに囲まれながら、楽しく行われました。
動画撮影・編集/水谷明希 |
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水木しげる(以下、水木):あの金色の玉が、ものすごく美味しそうなんですよね(笑)。 豪:だから僕は、妖怪は先生自身ではないかと思ったんですよ。 水木:そうですか(笑)。私の小さい頃は、暗いところには妖怪がいるんだと思っていましてね。妖怪の話をしょっちゅうするお婆さんもいたもんだから。だから、夜は怖かったですね。昔は電気もなかったし、道も真っ暗でした。もう、夜は家にいるしかない。 豪:闇が多いと人間はいろいろ想像するから、昔の人のほうが想像力があったと思うんですよね。僕なんかも小さいとき、怪物の姿とかをいろいろ想像しましたが、想像していると本当に目の前に見えてくるんですよね。 水木:最近はTVとか雑誌とか、世の中がにぎやかになってきましたからね。こういう今の時代の妖怪と、私が小さい頃の妖怪は、なんか違うみたいですね。昔の妖怪は闇夜にいて、大昔からの生活を続けている感じなんです。今のように、闇夜に街灯なんかが点くようになると、昔の妖怪は出なくなるんですね。
水木:そうなんです。電気ができる前は、夜は提灯でしたけど、提灯は怖いんですよ。おんぼろげなものは特に妖怪風で(笑)。でも、文明が進んでつまらなくなった面も多いですけど、つまるようになった面もありますね。お菓子でも普通に食べられるようになったし(笑)。 豪:『生まれたときから「妖怪」だった』という先生の自叙伝を読ませていただきましたけど、戦後アパートに住まれているときに、紙芝居の絵描きさんがいて、その人に誘われて紙芝居を始められたのが、マンガ家になられたきっかけなんですよね? 水木:戦争が終わって、南方から引き揚げてきましてね。食うために働かないといけなかったんですが、出来れば好きなことをやって食いたいと思いましてね。好きなものと言えば、自分には絵しかなかったんです。嫌いなことをするのは、嫌いだから。 豪:僕の小さい頃の記憶なんですが、火星人の乗ったタコ型のロボットが出てきて暴れる紙芝居があったんですよ。ああいうストーリーは、今にして思えば水木先生じゃないかなと思うんですが……。 水木:火星人の出てくる紙芝居は、面白がってよく描きましたよ。 豪:じゃ、やっぱりそうかもしれませんね。昭和23〜24年でしたか、ものすごく記憶に残ってるんですよ。 水木:当時は貧乏でしたから、子供たちの楽しみというと、みんな紙芝居を見ていましたね。それが、ちょっと豊かになってくると、すぐ貸本マンガの時代になって。本当に、急激に増えたんですよ、貸本屋が。 |
水木:あの貸本マンガつうのは残酷な世界でして。いわゆる絵物語の挿絵画家から転向する人が多かったんですが、貸本マンガの世界に入って、2冊3冊と続く人はいいんだけど、たいてい1冊で首が落ちる。売れないという理由で。 豪:え、そうなんですか?
豪:そういう中で、水木先生は『ロケットマン』でデビューされて、それがヒットして、次々と本を出されたわけですね。当時の貸本マンガのページ数は100ページくらいですか? 当時100枚描くのは大変ですよね。 水木:私が言うのもおかしいけれど、話の筋を作れる人が少なかったんですよ。絵描きではあるけれどもストーリーができない、という人が多かった。だから売れなくて、すぐに首になっちゃう。 豪:『ロケットマン』を当時借りて読んだかどうか、記憶が定かではないんですけど、今回復刻になるということで、コピーで読ませていただいたんです。これ、SFの形を取ってますけど、もうすでに妖怪マンガの原点的な作品になってるなあと思いました。『ゲゲゲの鬼太郎』などの原点が、すでに『ロケットマン』に入っていることが、改めて確認できました。 水木:『墓場鬼太郎』も『悪魔くん』も、最初は貸本マンガの単行本でしたね。 豪:ほかにも、貸本時代の水木先生の作品では、『地獄』という作品が大好きだったんですよ。本当に衝撃的でした。地獄で鬼が人間を三枚に下ろしたり。残酷なシーンなんだけど、水木先生の絵柄だとすごくユーモラスに見えて、それがまた逆に怖いなと。 |
豪:昭和38〜39年ぐらいですかね。貸本マンガ屋がなくなってきたのは。僕がデビューするころは、ほとんどなくなっていましたね。でも水木先生は、マンガ週刊誌のほうでもすぐに活躍されましたから。 水木:講談社の人も貸本マンガで読んでたらしくて、描かないかという話がきたんです。それから、ようやく人間らしい生活ができるようになりました(笑)。それまではいつ首になるかわからない生活でしたから。貸本マンガだと、1ヵ月後はどうなるかわからない。大体、貸本出版社自体が2〜3ヵ月後どうなるかわからない(笑)。 豪:貸本時代の鬼太郎は、目玉おやじがぽろりと鬼太郎の目から出たりして怖かったんですけど、『少年マガジン』に載ったらずいぶん可愛らしくなってましたね(笑)。 豪:そうおっしゃいながら、もう50年くらいですか(笑)? 水木:マンガ週刊誌で描くようになって、経済的には楽になったんですけど、仕事は楽にならない(笑)。私は徹夜が嫌いなんですが、でも週刊誌だと仕方がなくて徹夜を週に2〜3回、それも毎週してました。出版社は、何で週刊誌をやるんでしょう。やっぱり週刊誌は月刊の4倍出ますから、儲かるんですかね。 豪:いやあ、それは儲かりますよ(笑)。 水木:週刊誌だと、もうそれにかかりっきりになる感じで。えらい(関西の言葉で「しんどい」)ことは本当にえらいですよね。もう、えらかった。旅行もできないし。締め切り前には編集者は来ているし。やっぱり体力がないと。最後は健康な人だけが生き残ったのかもわからんね。 豪:でも絵はすごかったですね、点描とかあって。アシスタントは泣いたんじゃないですか(笑)? 水木先生とは、同じ時期に『少年マガジン』で連載してましたよね。僕はあの当時ギャグマンガを描いていましたけど、『(ゲゲゲの)鬼太郎』の『大海獣』というシリーズがあって、あれがものすごく好きだったんですよ。 |
水木:『悪魔くん』は、外国の妖怪を描きたいと思って始めたんですよ。やっぱり私は妖怪好きだから、『(ゲゲゲの)鬼太郎』とはまた違った感じで描きたいと。 豪:僕も悪魔に対する興味はありましたけど、やっぱりファウスト博士や魔法陣は水木先生がやられてたので、悪魔を描くなら違う方向から描かなければならないなと思いました。直接影響を受けたという訳ではないんですけど、とりあえず、水木先生のやられていることは思いっきり避けて(笑)、違うアプローチをしようと思いました。でも、僕がもしも『悪魔くん』を描いていたとしたら、どんなストーリーの作品になったかなと、ときどき考えることがありました。──メフィストのキャラクターが、貸本マンガの時と変わりましたよね? 水木:『悪魔くん』のことは、半分忘れてますね(笑)。連載は昭和41年だったかな。 水木:多少は困らなかったというものの、しょっちゅう考えてなくちゃならなくて、遊ぼうなんてことに頭がいかない。やっぱり週刊誌は、「重き荷を背負って山道を行くが如し」で(笑)。面白くなかったり、読者のハガキが少ないとすぐ……一所懸命良いアイディア出さないと、と必死でした。経済的には余裕ができたけど、精神的には余裕がなくなりましたね。好きなものだけ描くわけにはいかないし。 豪:でも、今は月刊誌も増えてきて、マニアックな作品も増えていますから、あの貸本マンガ時代の自由な雰囲気が蘇っているかもしれませんね。週刊誌だと内容も限定されちゃいますけど、今はかなりそれを離れたものを描ける場もあると思います。 水木:なるほどね。 豪:話は変わりますが、水木先生は太平洋戦争で行かれて以来、南方のほうがお好きなんですよね? 水木:好きですよ。南方がいいのはね、気候です。冬がないから備えをする必要がなくて、その日を食っていられればいい。大体天然の冷暖房で自然が守ってくれますから。まずいもの食ってても気にならないし、寝る時間も自由だし、「自然な怠け者」っていうか。日本みたいにあくせくしなくて。 豪:いい生活ですねえ、ノンキで。 豪:そっちのほうがよかったかもしれない(笑)。 水木:会うたびに熱心に言われるので、じゃあ残ろうかなと思って、軍に相談したんですよ。そしたら「いやあ、それはいいけれど、今一度、お父さんお母さんの顔を見てからにしたほうがいいんじゃないか」って言われまして(笑)。一旦帰ったら、日本がマッカーサーに占領されちゃって、そのまま行けなくなってしまいました。私は再び「帰ってくる」つもりだったんですが。 (おわり)
(c)永井豪/ダイナミックプロダクション2002(c)Go Nagai/Dynamic Production Co., Ltd. 2002 |
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