作品を描いても描いても、描き足りたという気がしない。1本描くたびに、自分はこれで、どのくらいの人間の記憶にとどまっていられるだろうかと思うし、自分が生きていたという証拠は、本当に世の中に残っているんだろうか、という不安も消えない。だから、『ハレンチ学園』を描いたときに日本中からボロクソに叩かれたけれど、そんなの屁でもなかった。 |
普段から信用している兄貴だし、その話には、非常に説得力があった。もちろん、その後すぐ病院へ行った。でも検査の結果が出るのは何日か後だ。その間に僕は、自分はもうすぐ死んでしまうのだと、信じ込んでしまった。そう思ったら、急に家族とも距離を感じるようになった。家族と仲良く食事をしていても、自分だけが透明なドームの中にいるような、家族との間に透明な膜かバリアーがあるような、そんな感覚だった。そして、自分は“個”なんだ、孤独なんだという、強烈な疎外感に襲われた。もう、仲の良かった兄弟とも、心が通わなくなるんじゃないかと思えた。死の恐怖より、この疎外感、孤独感のほうが僕にはこたえた。 死ぬということは、僕にとっては、全宇宙が消滅することだった。家族や友達など、仲のいい人々と別れなくてはならない。それだけでなく、物でも何でも、全てのものとも別れなくてはならないのだ。僕は小学校6年生のときに父を亡くして、死に別れる悲しさは充分に知っていた。目に入るものみんなと、これとも、これとも別れなくちゃならないのかと呆然とした。 突然「自分がいなくなったあと、みんなは覚えていてくれるだろうか?」と考えて、僕は急に怖くなった。みんな僕がいたことを忘れてしまって、誰も覚えていない。これほどの恐怖はなかった。考えて見れば、18年間生きてきたけれど、その何の証拠もなかった。僕が死んだ後、家族や友達が忘れたら、僕がいたという事実は何も残らない。「何かを残さなきゃ!」と、猛烈な焦燥感にとらわれた。それまでは、将来お金持ちになりたいだの、美人の奥さんをもらいたいだのと、一般的な夢を描いて生きてきたが、もうそういうこと全てが無意味に思えた。このとき、恋愛やお金やいろんな欲も、全部捨てられたと思う。生きていることが一番重要で、それ以外のことは全部些細なことだとわかった。 |
じゃあ、自分は何を残したらいいのか。ずーっと考えて、考え続けて、ふと思いついた。そうだ、マンガだ。マンガがあるじゃないか。とにかくマンガだけは、イタズラ描きでもなんでも、ずっと描いてきたじゃないか。アイディアだって貯めていたじゃないか。もし医者にガンを宣告されても、死ぬまでには何ヵ月かあるだろう。そこで何か一つ、自分がこの世に生きていた証として作品を完成させよう。もし生き延びることが出来たら、絶対にマンガ家になって、自分の生きていた証拠をたくさん残そう。僕は、ものすごく強い決心をした。 僕は腹を括って検査結果を聞きに病院に出かけた。医者は僕を前に、こう言った。「腸カタルですね。あんまり冷たいモノを飲んだり食べたりしないように」。 ガンなんかでは、全然なかったのだ。拍子抜けだった。下痢も、もらった薬を飲んだら、アッという間に治ってしまった。しかし、僕はこの数日間に手に入れた思いを忘れなかった。絶対、マンガ家になるんだという決心は変わらなかった。予備校もちょうど夏休みに入っていた。僕は堰を切ったように、マンガを描き始めた。2学期が始まっても、もう二度と予備校には行かなかった。授業料は前払いだったのでもったいなかったが、もう予備校には何の意味もなかった。僕は必死にマンガを描いて描いて描き続けた。 今でも僕は、作品を描いても描いても、描き足りたという気がしない。1本描くたびに、自分はこれで、どのくらいの人間の記憶にとどまっていられるだろうかと思うし、自分が生きていたという証拠は、本当に世の中に残っているんだろうか、という不安も消えない。だから、『ハレンチ学園』を描いたときに日本中からボロクソに叩かれたけれど、そんなの屁でもなかった。悪名でも何でも、残ってしまえばこっちの勝ちだと思っていたからだ。かえって「ああ、生きていた証拠が出来た!」と喜んだものだ。 ガン騒動からしばらくたって、僕はついに1作、マンガを完成させた。そしてその原稿を持って、出版社に持ち込みに行くことにした。ところが、出版社に持ち込みを始めてから、マンガ家になろうという新人の前には、ものすごく大きな壁があることを初めて知ることになる。その話は、次回。でも、そうやって頑張っていれば、いずれ僕はマンガ家になれるんだと、自信だけはものすごくあった。なれない筈がないのだ。なにしろ僕は、マンガ家になるしかないのだから。 <第8回/おわり>
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