僕は再び編集部を訪れて、どかっと原稿の束を出した。長い時間かかって目を通した編集者の返事は、こうだった。「面白いんだけどね、こんな長い話、新人じゃ載せられないよ」。面白いといいながら、短編でもダメ、長編でもダメ。僕は我慢できずに、ついに切り出した。「要するに、雑誌では新人は使わないんですね?」。 |
「ほう、よくできてるね。じゃあ今度の号で試してみようか」といった返事を、作品を読んでもらう間、僕は期待していた。面白いものを描いたという自信があった。だが「面白いね」と誉めてはくれるものの、どこかそらぞらしい。どこが面白いですか、どこがダメなのでしょうかと、自分の作品についていろいろ質問をするうちに、「こいつら、本気じゃないな」「どうも、新人の作品を使う気はないな」とだんだん思えてきた。持ち込みにくるからには読者なんだろうから、適当にお愛想を言って、早く帰ってもらおうという態度が見えたのだ。その後、毎月1作、短編を持ち込んだが、同じ反応だった。 僕は、3〜4回短編の持ち込みをくり返した後、次の作戦として「短編だからなめられたんだ。量で驚かせてやろう」と考えた。そして100ページを超える規模の作品を考えた。ストーリーが出来ると、ガーッと猛烈な勢いで描き始めた。こうやって完成したのが、『黒の獅子』というアンドロイドの忍者が主人公の作品だ。とりあえず描き上げたのは88ページだったが、それはもっと長い長編の第1部という構想だった。 ところで、この『黒の獅子』第1部の完成には、ものすごく苦労した。完成するまでに半年、いや7〜8ヵ月はかかっただろうか。別にペンが進まなかったからじゃない。何回も描き直しをしなくちゃいけなかったからだ。ちょうどその頃、僕は絵の成長期だったらしく、描いている途中に絵がどんどん上手くなっていった。そうなると、最初のほうの絵は、まるで別人の絵のようで、下手で見ていられない。これはいかんと思って冒頭を描き直すと、今度はその先の絵が気になってくる。直したい所はどんどん出てくるけれど、きりがないので、最後にはあきらめて手放したという感じだった。 |
僕は再び編集部を訪れて、どかっと原稿の束を出した。長い時間かかって目を通した編集者の返事は、こうだった。「面白いんだけどね、こんな長い話、新人じゃ載せられないよ」。面白いといいながら、短編でもダメ、長編でもダメ。僕は我慢できずに、ついに切り出した。「要するに、雑誌では新人は使わないんですね?」。彼は慌てて否定した。「いや、そんなことないよ。新人でデビューする人だっているよ」。そう言って彼は、新人の作品が載っているという雑誌を持ってきて、僕に見せてくれた。「ほら、この人。何しろ、○○先生のアシスタントをしていた人だからね」。 ここに来てようやく僕は、マンガ雑誌編集部の実態がわかった。マンガ編集者は、自分でマンガの面白さを判断できないのだろうと思った。だから、誰々先生のところに何年いた人だからオッケーとか、そういう理由でデビューを決めているのだ。今にして思えば、当時マンガ雑誌は、まだ黎明期といっていい時代だった。マンガ編集者という人たちも、まだまだそんな感じだった。僕はそれからいろんな雑誌に持ち込みをしたけれど、サンデーに限らず、どこの雑誌に行っても、同じような状況だった。 のちに僕は、デビューしてまもなく『ハレンチ学園』でヒットを飛ばした。だから、僕らのあとにデビューを目指した新人たちは、かなり楽だったんじゃないだろうか。新人作家でも売れるんだということが証明されたのだから、マンガ編集者も、持ち込みや新人賞の原稿を見る目が、ずいぶん変わったんじゃないかと思う。とにかく、僕が持ち込みをしていた当時は、新人がデビューするには、とても大変な時代だった。 そうなると、僕の取るべき方法は一つしかない。誰か有名なマンガ家の先生のアシスタントになることだ。その頃はまだ、どこの雑誌も新人賞の募集などはやってなかった。しばらくたって『少年マガジン』が新人賞を最初に作ったけれど、もう僕は持ち込み慣れしていたし、郵送して原稿が戻って来なかったらやだなとも思ったし、直接編集者と話をしたかったので、新人賞に応募したことはない。もっとも新人賞が出来た頃は、ある大変な先生の所でアシスタントを始めていたので、応募しようにも描くヒマ、いや寝るヒマもなかったのだけれど。 作品を見てもらいたいので、誰かマンガ家の先生を紹介してくださいと、僕は知り合いの編集者に頼んだ。誰がいいかと聞かれたので、迷うことなく、子供の頃から一番好きだった手塚治虫先生の名前を挙げた。その編集者は、虫プロダクション(当時の手塚先生の会社)に段取りをつけてくれた。虫プロに電話をして、訪問する日が決まった。憧れの手塚先生に会える。そう考えると、胸が躍った。いよいよ明日は虫プロに行くという晩、僕は見てもらう原稿を用意して、寝床に入った。 すると、夢を見た。僕が虫プロに行くと、広い庭があって、そこに木造のオンボロな小屋が建っている。そしてその中に男の人がいて、僕に向かっておいでおいでをしているのだ。その人は、マンガ家の石森(のちの石ノ森)章太郎先生だった。石森先生の顔なんて知らないから、顔はぼんやりして見えない。だけど僕には、なぜかその人が石森先生だとわかるのだ。翌日、「何でこんな夢を見たんだろう?」と不思議に思ったが、さらに不思議な夢だったことがわかったのは、ちょっとあとの話。 とにかく僕は、手塚先生のいる虫プロに行くため、原稿を持って家を出た。 <第9回/おわり>
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