永井豪天才マンガ家の作り方教えます! 永井豪、初の自伝的エッセイ 豪氏力研究所

石森先生のアシスタント時代(2) 家には全く帰れない。風呂にも入れないし、食事の時間さえほとんど取れない。体重も減って、ガリガリに痩せこけた。あるとき、とにかく目を覚まそうと、水で顔を洗い、ふと鏡を見ると、僕の顔は鬼のようなものすごい形相になっていた。目が落ちくぼんで、そのくせヘンにギラギラ、ギョロギョロしている。これがオレの顔かあ、と呆然と眺めるしかなかった。この頃の仕事場は、まさに地獄のようだった。


地獄の仕事場
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この頃じゃないかなーと思われる、当時の1枚。
“一人アシスタント”時代、僕はいろんな工夫をして乗り切ろうとした。まず、その前から石森プロには、原稿が落ちそうになると編集者に手伝ってもらうという習慣があったので、これをさらに徹底した。つまり、編集者は必ず自分の担当作品を手伝うことにしてもらった。編集者も、自分の雑誌の原稿を早く持って帰りたいわけだから、みんなイヤも応もなかった。また、ちょっと余裕があると「着替えをしに家に帰らないと」と言って、家に原稿を持って帰って、弟に手伝わせたりもした。実際、休みは月に1〜2日しかなく、自分から頼まないと、家にも帰れない状態だったのだ。

 ふた月ぐらい何とかしのいでいると、女の子のアシスタントが一人入ってきた。だが、これがまた何にも描けない人だった。できるのはベタ塗りとホワイト、それに消しゴムかけなどの仕上げくらいで、それはすでに担当編集者がやってくれていた。結局、背景はほとんど僕が描くしかなかった。さすがにその頃には、石森先生も仕事を減らしたけれど、それでも月に150〜200ページはあっただろう。やがて、桜台に建てていた石森先生の家が完成し、仕事場もそこへ移った。アシスタントも、新たに後輩が2人入ってきた。すると石森先生は、新居に移って張り切ったのか、スタッフが増えて安心したのか、また仕事を増やし始めた。

 その頃の仕事は月刊誌が多かったが、他にもありとあらゆる雑誌の仕事を、石森先生は受けていた。学習雑誌から芸能誌、果ては宗教団体の雑誌のような、こんな雑誌あるのか、というものまで。だから仕事は、どんどん忙しくなっていく一方だった。ことに、月の半ばになると締め切りが集中し、睡眠時間2〜3時間、起きている間はほとんど仕事、という状態が2週間くらい続いた。さすがに仕事がこなせなくなり、独立していた元腕利きアシスタントの野口竜さんにお願いして、その忙しい期間だけ手伝ってもらうことにした。

 その頃が、忙しさのピークだった。一日に64ページ描いたのもこの頃だ。僕らは倒れそうな状態で描いていたのだが、編集者も必死だから、アシスタントを寝かさないようにする。いよいよ限界に来て「ちょっと休まないと、もうダメです」と言うと、編集者は「うーん」と腕時計を見て、「じゃ、ここまでね」と1〜2時間だけ寝させてもらえる。寝ていても、編集者が時間通りに起こしに来る。トイレに入って、あまりの眠さに壁にもたれてウトウトする。と、突然ドアをドンドンドン! とものすごい勢いで叩かれる。「まだですか!」。編集者が居眠りに感づいて、起こしに来たのだ。「すみませーん……」とトイレを出ると、手を引っ張られて、仕事場に連れ戻される。

 家には全く帰れない。風呂にも入れないし、食事の時間さえほとんど取れない。体重も減って、ガリガリに痩せこけた。あるとき、とにかく目を覚まそうと、水で顔を洗い、ふと鏡を見ると、僕の顔は鬼のようなものすごい形相になっていた。目が落ちくぼんで、そのくせヘンにギラギラ、ギョロギョロしている。これがオレの顔かあ、と呆然と眺めるしかなかった。この頃の仕事場は、まさに地獄のようだった。


石森先生の執念の秘密
 本当に、石森先生は仕事を断らなかった。連載作品ならまだしも、どんな小さなカット1点でも引き受けた。僕は、そんなカットを描く時間があったら、連載の作品ををねちっこく描いたほうがいいんじゃないかと思うのだけれど、とにかく“量”を描くことに執念を燃やしているように見えた。何故なんだろう、といつも不思議でならなかった。まず、マンガが大好きだということがあっただろう。マンガで身を立てていくんだ、という強烈な意志を、いつも石森先生には感じた。次に、描くためのマテリアルが豊富な人なので、どんなジャンルでもやるんだ、何でもこなせるぞ、という意気込みもあっただろう。とにかく、がむしゃらすぎるくらいがむしゃらに仕事をしていた。

 野口さんに、「何でここまでやるんでしょうかね」と、疑問をぶつけてみた。すると、「やっぱり、前に干されたのが大きいんじゃないか?」という答えが返ってきた。干された──? よく聞いてみると、昔、世界旅行に出かけたときに、当時の連載を全部、途中で終了してしまったのだという。その結果石森先生は、あらゆる出版社の怒りを買い、旅行から帰って来ても、ほとんど仕事がない状態にされてしまった。なぜそんなことをしたのか、あとで石森先生の自伝を読んでみたら、最愛のお姉さんが亡くなって、マンガ家を続けていく自信がなくなった、という背景があったようだ。

 そう言えば、と僕も当時のことを思い出した。僕が中学生のとき、石森先生のファンだったので、結構な量の連載作品を読んでいたのだが、『少年同盟』ほかたくさんあった連載が、あるときバタバタッと全部終わってしまったことがあった。当時もどうしちゃったのかなと不思議に思ったが、そういうことがあったとは。石森先生は、マンガ雑誌の仕事がなくなってどうしたかというと、一人でアニメを手作りしていたらしい。そして、スタジオ・ゼロの仲間たちとアニメの会社を興し、徐々にマンガ界へ復帰していったのだ。石森先生には未完の作品が多いが、この世界旅行のせいで“未完”になったマンガも多い。

 石森先生のアシスタント時代は、こんな風にとんでもない目にあった話が多いのだけれど、何しろ事実なんだからしようがない。でも、一方で僕はこのアシスタント時代に、将来マンガ家になる上で重要なことをたくさん学んだ。その話はきっと、マンガ家を目指す人たちにとって、参考になるに違いない。とにかく僕は、がむしゃらに描き続ける石森先生を見ながら、がむしゃらに先生の全てを盗もうとしていたのだ。

<第12回/おわり>

(c)永井豪/ダイナミックプロダクション2002
(c)Go Nagai/Dynamic Production Co., Ltd. 2002



永井豪(ながい・ごう)
1945年9月6日、石川県輪島市に生まれる。石ノ森章太郎氏のアシスタントを経て、'67年『目明しポリ吉』でデビュー。'68年『ハレンチ学園』を連載開始、たちまち大人気を博し、以後現在に至るまで、幅広いジャンルの作品を大量に執筆し続けている。代表作は『デビルマン』『マジンガーZ』 『凄ノ王』『キューティーハニー』など多数。


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豪氏力研究所  りてる


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