永井豪天才マンガ家の作り方教えます! 永井豪、初の自伝的エッセイ 豪氏力研究所

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デビュー1年で会社を設立 マンガ家は、お金の交渉は苦手だ。あんまり粘ると仕事がもらえなくなるんじゃないかという不安もあって、言いたいこともなかなか言えない。特に新人である僕が、百戦錬磨の編集者と渡り合うのは大変だった。今、プロ野球界でも、年俸や条件の交渉のために、代理人制度を導入しようという動きがあるが、僕はもう35年以上前に、同じ問題に突き当たっていた。


マンガ家で生きていくために
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仕事場の近くで。20代の頃の写真と思われる。
「会社を作ろう」と決意したのは、デビューして3ヵ月後くらいだった。マンガ家という職業は、一人でやっていくには、あまりにも危険に思えた。プロダクション・システムにして、アシスタントにもどんどんデビューしてもらって、誰かが売れなくなったら他の人に助けてもらう。そうすればうまくいくんじゃないか、と考えたのだ。でも、当時のアシスタントたちに話を持ちかけても、誰も賛成してくれなかった。「内弟子制度」が常識の時代で、無理もなかった。でも僕は、どうしても会社を作る必要があると思った。

 また同時に、そのとき僕は、マネージャーの存在が必要だと強く感じていた。マンガ家として仕事は順調に増えているものの、描けば描くほど赤字という状態。となると、原稿料を上げてもらうしかない。なにしろ、当時のマンガ家は原稿料で食っていくしかないのだから、まず仕事を出来るだけ増やして、そして、生活できる金額まで、出版社に原稿料を上げてもらうしかないのだ。デビューのときの1200円から始まって、僕は一所懸命粘って交渉し、少しずつ原稿料は上がっていった。でも、100円単位でじわりじわりという感じで、1年後『ハレンチ学園』の連載が始まったときでも、2000円に届いていたろうか。

 そもそもマンガ家は、お金の交渉は苦手だ。あんまり粘ると仕事がもらえなくなるんじゃないかという不安もあって、言いたいこともなかなか言えない。特に新人である僕が、百戦錬磨の編集者と渡り合うのは大変だった。今、プロ野球界でも、年俸や条件の交渉のために、代理人制度を導入しようという動きがあるが、僕はもう35年以上前に、同じ問題に突き当たっていた。できれば仕事に集中したい。生活もできないと困る。お金や仕事の交渉を、信頼できる誰かに任せたかった。

 そこで僕は、兄の泰宇(やすたか)に相談した。彼は、じゃあマネージャーもやって、会社も作ろう、と言ってくれた。会社は、最初は有限会社でいいだろうと、その設立方法を調べ、デビューから1年後には「ダイナミックプロダクション」を設立することができた。また、その翌年には、株式会社にした。


原稿料が数倍になった
 会社組織にしたことで、一体何をやる気なんだろうと、出版社にはヘンに警戒された。それまでにも、手塚治虫先生やさいとうたかを先生など、会社を持っているマンガ家はいたのだが、新人でいきなり会社を作ったヤツはいなかったからだ。最近はデビュー直後でも、税金対策のために会社を興すマンガ家が多いようだが、僕の場合は発想が全く違う。何しろ、税金対策どころか、大赤字だったのだから。

 僕が考えていた「マンガ家の会社」に、当時比較的近かったのは、石森先生も参加していたスタジオ・ゼロだったろうか。トキワ荘のマンガ家たちが作った会社である。しかし社長も全員持ち回りでやったり、ちゃんとした株式会社と言えるのかどうかわからない。むしろ、協力し合うための共同体に近かったのかもしれない。のちに一部の人を中心にして、スタジオ・ゼロはアニメ制作会社と変わり、所属していたマンガ家たちは、それぞれ自分の会社を作ることになっていく。

 会社の設立とともに、兄の泰宇は僕のマネージャーをやってくれることになった。それで、『ハレンチ学園』がヒットし始めた頃から、原稿料等の交渉を彼に任せることにした。それと同時に、驚くべきことが起こった。最初の原稿料、1p1200円が2000円になるまで、約1年かかったのだが、マネージャーを通したらすぐ5000円に上がった。そしてその半年後には、1万円になった。半年で5倍になったのだ。そうなってようやく僕は、原稿料で食えるようになった。一体、これまでの原稿料はなんだったんだろう、という感じだった。僕一人で交渉していたのでは、とてもこうはならなかっただろう。

 こうして、ダイナミックプロダクションには、だんだん人が増えてきた。仕事も増える一方だった。その頃はアシスタントも、石川賢を始め5〜6人が集まっていて、先輩の蛭田くんがよく面倒をみて、鍛えてくれていた。その頃、蛭田くんが後輩アシスタントに言った名台詞に「マンガ家って、寝られないんだからね」というのがある。彼の鬼軍曹ぶりを、よく表している言葉だが、それにしても当時は、すごいことを言っていたものだ。

 さて、当時のマンガ家の凄まじい仕事ぶりもそうだし、会社を持つのが大変なことや、単行本を出すのが大変だったということを見ても、まだまだその頃は、出版業界もマンガ界も発展途上の過渡期だった。街にはまだ、マンガの貸本屋もたくさんあった。『ゲゲゲの鬼太郎』で『週刊少年マガジン』で雑誌デビューする水木しげる先生は、僕がデビューした頃は、まだ貸本マンガ業界で活躍中だった。マンガ雑誌にしても月刊誌が主流だった。“週刊マンガ雑誌”というものができ、「毎週マンガが読めるなんて、そんないいことあるの?」と驚いたのが、僕が中学生の頃。デビューした頃には、週刊マンガ誌は『少年マガジン』『少年サンデー』『少年キング』の3誌で、まだ『少年チャンピオン』も『少年ジャンプ』も創刊前だった。

 いわば当時は、“少年マンガ”というジャンルができはじめた頃だったのだ。その中でデビューした僕は、まず経済的な面でいろいろ苦労することになったが、同時に、作品を描く上でも、大きな問題にぶちあたる。それは、当時の少年マンガの「タブー」という問題だった。僕は、作品を描き始めるとすぐに、この問題に巻き込まれていくことになる。

<第18回/おわり>

(c)永井豪/ダイナミックプロダクション2002
(c)Go Nagai/Dynamic Production Co., Ltd. 2002



永井豪(ながい・ごう)
1945年9月6日、石川県輪島市に生まれる。石ノ森章太郎氏のアシスタントを経て、'67年『目明しポリ吉』でデビュー。'68年『ハレンチ学園』を連載開始、たちまち大人気を博し、以後現在に至るまで、幅広いジャンルの作品を大量に執筆し続けている。代表作は『デビルマン』『マジンガーZ』 『凄ノ王』『キューティーハニー』など多数。


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