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この頃僕は、『別冊少年マガジン』を中心に『剣マン』シリーズを描いていたが、ここでも内容に対する不可解な反応にでくわした。作品の中で僕は、ビキニの水着の女の子を描いた。そうしたら原稿を受け取った編集者が、「水着はちょっとね……特に、ビキニはマズイよ」と言うのだ。僕はビックリしてその理由を聞くと、「だって少年マンガだから」と言うではないか。 |
『まんが王』の編集長がやってきたのは、デビューして3ヵ月後くらいのことだった。『週刊少年マガジン』に載った『じん太郎三度笠』を見て、すぐに飛んで来たのだという。そして「赤塚不二夫先生がアドバイスをくれるから、一緒に来ないか」と僕を誘った。ギャグ漫画の大先輩にお会いできるというので、僕は喜んでついていった。ところが、お会いするなり赤塚先生にこう言われた。「どうしてあんなマンガを描くんだ!」。お叱りの言葉をもらってビックリする僕に、赤塚先生は「こういう残酷なマンガを載せちゃいかんって、編集部にも怒鳴り込んだんだ」と続けた。 『じん太郎三度笠』はブラックユーモアで、主人公のじん太郎がおじいちゃんを殺したり、ヤクザの死体で生け花を作ったり、人間を刻むわ輪切りにするわ、というブラックなギャグをたくさん描いていた。こう書くといかにも残酷かもしれないが、僕は当時、無茶苦茶可愛い絵柄で描いていたし、そもそもこれはギャグマンガなのだ。同じ『週刊少年マガジン』では、無用ノ介(さいとうたかを先生)がもっとリアルに、ズバズバと人を斬って、血をドバドバ出している。リアルな描写はよくてギャグではいけない、という理屈は、僕にはどうしてもわからなかった。 『じん太郎三度笠』は、連載になる予定だったが5回で終わりになり、不思議に思っていたのだが、どうやら赤塚先生のお怒りのせいらしい。『マガジン』だけでなく、『週刊少年サンデー』で進んでいた連載の話も流れてしまい、渡していた第1話の原稿は、戻ってきてしまった。だが捨てる神あれば拾う神ありで、僕を赤塚先生に引き合わせた『まんが王』の編集長が、「あんなひどいことを言うとは思わなかった。すぐうちで連載しよう」と言って、連載を決めてくれた。これが二つ目の連載作品『馬子っこきん太』だ。 この頃僕は、『別冊少年マガジン』を中心に『剣マン』シリーズを描いていたが、ここでも内容に対する不可解な反応にでくわした。作品の中で僕は、ビキニの水着の女の子を描いた。そうしたら原稿を受け取った編集者が、「水着はちょっとね……特に、ビキニはマズイよ」と言うのだ。僕はビックリしてその理由を聞くと、「だって少年マンガだから」と言うではないか。(えー、どうしていけないのかな……もうちょっとやろ!)と思った僕は、原稿を描き直す時間がないような、締め切りギリギリに原稿を渡す、など頭を使い、ストーリーにも色恋沙汰をどんどん取り入れて、さらに「そっちの方向」へエスカレートさせていった。すると、こう言われた。「永井君、こういうのは少年マンガではタブーなんだ。だから、描いちゃダメなんだよ」。 |
その上で、やはり「これまでにないギャグマンガを描こう」という考えが、自分の中にあったのが、やはり最も大きい理由だろう。これまで描かれてないものを目指していけば、タブーとされているテーマにブチ当たるのは、むしろ当然とも言えた。 自分が描いていこうと思っているものは、少年マンガではタブーとされている世界だった。そうわかったところで、僕がどう思ったかというと、「そうかあ、タブーかあ。タブーなら……やんなきゃあなあ!」だった。と言っても、タブーと戦おうとか、表現を抑圧する風潮を打破しようとか、大それた使命感に燃えたわけではない。単純に「しめしめ、こりゃあ狙い目だ!」と舌なめずりしたのだ。 タブーになっているということは、これまで誰も描いてない世界だということだ。それを描けば、自分だけの個性になるし、新しいタイプのマンガ家として認知させることができる。手塚治虫先生や石森章太郎先生などの先人が、さんざん描き尽くしたテーマを描いても、その真似、亜流にしかなれない。マンガにおいて、誰も描いてない分野でのパイオニアになりたい、そう思ったから、僕はあえてタブーとされているテーマを、わざわざ選んで描いていこうと思った。赤塚先生がダメだというのは、自分が描きたくても描けないものをアッサリ描かれたからだな──そう思った僕は、よしやってやろうと、叱られて自分の進むべき道を再確認したのだ。だから、赤塚先生には、逆に感謝しないといけない。 デビューからおよそ8ヵ月後、集英社で『少年ジャンプ』という漫画雑誌が創刊された。5ヵ月後には順調に部数を伸ばして週刊誌となり、その後の発展はご存じの通りだ。その創刊にあたって、僕のところにも原稿の依頼が来ていた。そこで僕は、創刊号で『ハレンチ学園』という読み切り短編を描いた。その後これを含め、隔週時代の『ジャンプ』に3本の読み切りを描いたが、最も読者の反応がよかったのがこの『ハレンチ学園』で、5ヵ月後、あらためて連載作品としてスタートすることになった。 この『ハレンチ学園』は、僕と編集部の見込み通り、読者である子供たちに大いに受けて大ヒットする。だが、同時に日本中に“永井豪バッシング”が巻き起こった。「あんなマンガを許すな!」「連載をやめさせろ!」。僕はたちまち、日本中の大人を敵に回した、国民的な悪者になったのだ。 <第19回/おわり>
(c)永井豪/ダイナミックプロダクション2002 (c)Go Nagai/Dynamic Production Co., Ltd. 2002 |
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