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こうして『手天童子』は、無事に最終回にたどりついた。いよいよ最終回かと思ったとき、何かやらなきゃいけなかった使命が一つ終わったというか、ものすごく救われた感じがした。最終回のネームは喫茶店でやっていたのだが、突然、涙がどーっとあふれてきて止まらなくなった。他のお客の目もあるし、こりゃまずいと、左腕で顔を隠しながら描いた。作品に感動したというのではなく、もっと深いところから出てきた涙、とでもいおうか。「オレ、鬼に相当迷惑かけたことがあるのかなあ」と思った。前世というものがあるとしたら、人に大きな怨みをかったことがあるのだろう。その人が、過去の僕を強く怨んで、鬼になったのだろうか。『手天童子』を描いたことが、その贖罪になったのかもしれない。僕は、そう思った。
そう、「怨みを持った人が、鬼になる」のだ。僕は、そう考えている。だから、鬼は想像上の存在ではなく、実在したと思っている。と言っても、「鬼」という種族や生物がいたという意味ではない。人間こそが、鬼の正体なのだ。鬼については、いろいろな伝承が残っている。巨大であり、赤い色や青い色をしており、悲しいような怨みがましいような形相で、そして頭にいろんな本数の「角」が生えている。あるいは、金棒を持っていたり、虎の皮のフンドシをしているという描写もある。そういう特徴の謂われは、僕にはわからない。
でも、その中で一つだけ、「角の正体」については、こうではないかと考えていることがある。鬼の角は、きっと精神的な力が具象化したものだ。オーラの固まり、と言ってもいいかもしれない。人間がものすごい怨念に取り憑かれると、その怒りや怨みが、頭から外部に向かってぐおっと放射され、燃え立つのだ。オーラが見える人がいるらしいが、昔もいたのだろう。その人の目には、頭に角が生えているように見えただろう。激しく怒った人を見ると「頭に角が生えている」と言うではないか。そして精神世界では、そういった激しい怨念を抱えた人は、きっと鬼の姿をしているに違いない。鬼という言葉の語源については、人の世に隠れ忍ぶ存在なので「隠」(おん)から来た、という説が強いけれど、僕は「怨念」(おんねん)が「おに」になったんじゃないか、と考えている。
『手天童子』の6年前、『鬼─2889年の反乱─』という短編を描いたとき、本物の人間と区別するために、人造人間の頭に角が付けられた、という設定にした。そして人造人間たちは、人間たちのあまりの非道な扱いに「鬼」となり、人間を殺し尽くすことを誓う。この作品を描いたときには、角の正体については何も考えていなかったけれど、角が怨念の象徴であるという今の考えとも、見事につじつまがあっていたようだ。
<第38回/おわり>
(c)永井豪/ダイナミックプロダクション2002-2003
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