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自分に近い年齢の読者層なら、比較的簡単だ。どんな生活をしているか、大体想像がつく。だが、低年齢層の読者の場合、考えないとわからない。読者がわからないと、的はずれな作品になってしまう。だから僕は、読者が起きてから寝るまでの一日を、頭の中で細かくシミュレーションすることにしている。 |
何のためにマンガを描くのか、と聞かれると、「マンガを描くのが好きだから」としか答えようがない。でも、プロのマンガ家である以上、自分の好きなモノをただ描いているわけにもいかない。作品が雑誌に掲載され、それを読者が買って読んでくれて、初めてプロなのだ。僕は、これを忘れなかったからこそ、長いことマンガ家としてやってこれたと思っている。中でも一番重要なのは、読者に「面白い!」と言わせることができるどうかだ。 極端な話、編集者や雑誌が「これは売れないですよ」とか「別のテーマにしましょうよ」とか言っても、読者さえ支持してくれればこっちのものだ。人気があれば連載は続くし、単行本も売れるし、やがて雑誌もその作品を認めてくれるようになる。だから、僕は読者を楽しませるために、いつもいろんなことを考えて作品を描いてきた。世間では、どうやら僕は、思いつくまま好き放題に作品を描いてきた人、と思われているようだけれど、とんでもない。僕ほど、読む人のことを考えてマンガを描いている作家はいないんじゃないか、と思っているくらいだ。 では、読者の支持を集めるためには、どうしたらいいのだろうか。「それがわかれば苦労はしないよ」と言われそうだけれど、少なくとも新しい作品を始める場合、僕が必ずやることが一つある。それは、「読者の一日をシミュレーションすること」だ。まず、読者像を想像することから始まる。作品を連載する雑誌に一通り目を通し、「うーん」とうなりながら、どういう人たちが読んでいるかを考える。年齢はいくつくらいだろうか。どういう性格の人だろうか。何に興味を持っているんだろうか。と、いろんなことをだ。 自分に近い年齢の読者層なら、比較的簡単だ。どんな生活をしているか、大体想像がつく。だが、低年齢層の読者の場合、考えないとわからない。読者がわからないと、的はずれな作品になってしまう。だから僕は、読者が起きてから寝るまでの一日を、頭の中で細かくシミュレーションすることにしている。朝、お母さんに起こされる。あわてて教科書をカバンに詰めて家を出る。学校でどんな目に遭うのか。友だちと何をして遊ぶのか。学校の帰り道には何をするのか。家に帰って両親とどういう話をするのか。テレビは何を観るのか。自分の部屋にある机の引き出しには、何が隠してあるのか──。 そうやって子供の読者になりきって、具体的に読者の一日を思い浮かべるのだ。すると、やがて「こういうことしたい、あんなことがやりたい」という子供としての欲求が、自分の中に湧いてくる。そうなれば、しめたものだ。自分の構想と照らし合わせて、「こういう方向には、行っても大丈夫だな」「このへんの理屈までは、理解してもらえるな」と調整を加えながら、作品の展開を組み立てていく。小さい子供は未来が見えてない。だから、興味は現在にしかない。好き嫌いをストレートに感じることが、重要だと思う。 困るのは、創刊誌に原稿を依頼されたときだ。増刊として生まれた新雑誌なら、母体からだいたいの読者層はつかめる。でも、その出版社も初めてのジャンルというケースだと、編集部の「こういう読者に向けて出します」という言葉を信じて描くしかない。しかし、低学年向けだと言われて描いたのに、他の作品はそうでもなくて、創刊号が出来上がってから「おいおい、ずいぶんと年齢層の高い雑誌だなあ」とビックリすることも多い。難しいものだ。 |
これは『ダンテ神曲』を描き終えて思ったことだけれど、古典をモチーフにして、自分なりの演出で描くことには、大きな意味がある。自分にないものを手に入れることができるのだ。『ダンテ神曲』の場合、原作が持っている世界観を取り込んで、かなり自分のモノにできたような気がした。そして、そこから発想して『デビルマンレディー』という新しい作品を描くことができた。 だからそれ以来、次に取り込む古典は何がいいかなと、漠然と考えていた。『聖書』は古典中の古典だけれど、『デビルマン』などで神と悪魔の戦いとして、すでに相当描いたような気がしている。今さら、という感じは否めない。「西洋でないとすれば、東洋かな?」。そう考えたとき、僕は昔から中国の古典が好きだったのを思い出した。「そうか、中国があった!」。 『西遊記』は、手塚治虫先生の『ぼくの孫悟空』が大好きだったこともあって、親しみがある。主人公たちが全員スーパーで、敵は妖怪ばかりで、あんなに自由の利く物語はない。“スーパーキャラクターもの”の元祖だろう。僕自身も『スーパー西遊記』を描いたし、他にも鳥山明さんや諸星大二郎さんなど、いろんな人がマンガ化しているが、まだまだやれる余地はあるだろう。『水滸伝』だって、ものすごい超人がゾロゾロ出てくる話で、マンガにしても面白いだろう。もちろん『三国志』も面白い。東周から、秦の始皇帝までの時代も面白い。『封神演義』だって、僕が描いたら、もっとおどろおどろしい無茶苦茶な話になるだろう。 王をたぶらかす傾城の美女、残酷極まりない支配者、何万という人馬の大群、気功とも超能力ともつかない不思議な力。中国の皇帝は龍の子孫だという。伝説からして、もうSFだ。三星堆遺跡が突然発見されたように、過去に何があったと描いても「そうかもしれん」と思わせる中国。それは僕にとっては、大きな大きなフロンティアなのだ。 <第54回/おわり>
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