手塚先生には、「結婚式をすっぽかす」という、非常に困ったクセがあったのだ。どうやら、他人の幸せにジェラシーを感じるタチだったらしい。すっぽかし事件の中で、一番ものすごいケースは、故・石ノ森章太郎先生の結婚式だ。なにしろ、手塚先生は石ノ森先生の「仲人」だったのだから……。 |
マンガ家になって、子供の頃に憧れていた多くの先輩方に会うができたけれど、なんといっても嬉しかったのは、手塚治虫先生とお会いできたことだ。何しろ、僕が最初に読んだマンガが手塚先生の作品だし、手塚先生の作品を読んで育って、マンガ家になろうと決めたのだから、特別な人なのだ。僕にとっては、「神様」みたいなものだ。でも、ここはもっと親しみを込めて「マンガのお父さん」と呼ばせていただこう。最初に手塚先生とお会いしたのは、何かのパーティーの席だったと思うけれど、思いっ切り緊張していたので、何を喋ったか覚えていない。でも「ああ、ついにあの手塚先生に会えた!」と感激したことは、よく覚えている。 手塚先生の作品の偉大さと、その膨大な数については、今さら言うまでもない。それに加えて、気取りのないやさしい人柄で、手塚先生は他のマンガ家みんなから敬愛されていた。けれどご本人は、あれほどの実績と評価があるというのに、他のマンガ家に対して本気でライバル意識を燃やしていた。人気アンケートの結果が悪いと落ち込んだり、売れている他のマンガ家を気にしたり。そういうところがまた、手塚先生のすごいところだった。 そして、そういう性格のおかげで、ちょっとおかしなエピソードも残っている。手塚先生には、「結婚式をすっぽかす」という、非常に困ったクセがあったのだ。どうやら、他人の幸せにジェラシーを感じるタチだったらしい。すっぽかし事件の中で、一番ものすごいケースは、故・石ノ森章太郎先生の結婚式だ。なにしろ、手塚先生は石ノ森先生の「仲人」だったのだから……。結局その日は、仲人が来なかったために結婚式は中止となり、後日あらためてやり直したそうだ。僕が石ノ森先生に聞いた話だから、間違いない。 と、そこまではまだ他人事だったけれど、やがて自分も結婚することになった。まだご挨拶をするくらいの関係だったけれど、尊敬する手塚先生を、披露宴にご招待しないわけにはいかない。でも、石ノ森先生の話を聞いていたので、「ひょっとしたら……」と心の準備をした上で、手塚先生に招待状を出した。もちろん仲人は、他の方にお願いしていた。そして、僕の結婚式当日。手塚先生は……来なかった。後で聞いた話によると、手塚先生のマネージャーさんが「今日は豪ちゃんの結婚式ですよ? 行かないんですか?」と何度も言ってくれたらしい。でも、先生は「うん、うん」と生返事をして、ずっと仕事をしていたのだそうだ。 でも、そんな手塚先生も、結婚式をすっぽかしたあとは、いつも急に「悪かった!」という気持ちになっていたらしい。僕の結婚式の数日後、先生は「ごめんね、ごめんね」と電話をくれて、お詫びだと言って、僕たち夫婦を高級ホテルのレストランに招待してくれた。「神様」と同じテーブルで食事をすることになった僕は、緊張するやら嬉しいやらで、ポーッとしてほとんど喋ることができず、もっぱらウチの奥さんが手塚先生とお話していた。僕がトイレに立った時に、手塚先生はウチの奥さんに、「豪ちゃん、黙っているけど、やっぱり怒っているのかな……?」とコッソリ聞いていたらしい。後日、披露宴に呼べなかった人たちのために、もう1回結婚パーティーをやった時には、ちゃんと手塚先生も来てくれた。 |
その帰り、「手塚先生は来なかったね」と小野さんが言うので、「ドナルド・ダックの原作者に会いに行くと言ってましたよ」とうっかり答えたら、小野さんが「なにーっ!」と目を剥いた。小野さんは、のちに『ドナルド・ダックの世界像―ディズニーにみるアメリカの夢』という本を書いたくらいの、ドナルド・ダック好きだったのだ。さあ大変と、僕が手塚先生に耳打ちすると、「えーっ! 喋っちゃったの! 小野さんには内緒だったのに」と、僕をとがめるような顔をする。聞けばその原作者の人は、マンガ評論家という人種が嫌いだったらしい。手塚先生は仕方なく、何か理由をつけて、小野さんを連れてまたその人に会いに行ったそうだ。そういう大事なことは、早く言ってくれないと。 サンディエゴでは、こんなこともあった。映画館で、まだ日本では公開前の『未知との遭遇 特別編』をやっていたので、みんなで観に行こうということになった。手塚先生も誘おうと、僕がホテルの先生の部屋をのぞくと、先生はなんと、『ブッダ』の原稿を描いていた。僕は「大変でしょうから、手伝わせてください」と申し出たのだけれど、「いや、いいです、いいです。アメリカを思いっ切り楽しんでください」と、先生は一人で描き続けた。このとき無理矢理でもお手伝いしなかったことを、僕はのちのちすごく後悔した。というのは、その後手塚先生の原稿を手伝うチャンスは、二度とやってこなかったからだ。 ところで、手塚先生というとベレー帽がトレードマークだった。それこそ、寝るとき以外は常に被っていたので、ベレー帽を被ってない姿を見たことのある人は、ほとんどいない。そのせいで、手塚先生のアタマに関してはいろんな噂が飛び交っていた。ところが僕は、SF作家クラブで熱海に行ったとき、とうとうベレー帽の中身を見ることができたのだ。どんなだったかって? 一緒にいたSF作家全員が、最初その人が誰だか全然わからなかった、ということで、想像してくれませんか。 <第60回/おわり>
(c)永井豪/ダイナミックプロダクション2002-2003 (c)Go Nagai/Dynamic Production Co., Ltd. 2002-2003 |
|
|