昔の編集者は、無茶苦茶で「この人、よく首にならないな」と思う人があちこちにいた。仕事より遊びのほうが好きで、仕事場へ来ても「締め切りはいいから、遊びに行こうよ」という人も少なからずいた。作品の打ち合わせをやるにしても、雑誌も編集部もどうでもいい、オレの好きなマンガを作るんだ、という一匹狼タイプが多かった。 |
『ぼくら』(講談社)でデビューすると、すぐに同じ講談社の『週刊少年マガジン』からもお話をもらい、さらにいろんな出版社から仕事の依頼が殺到するようになった。これまではもっぱら作品について話してきたけれど、作品を発表するときには、必ず担当編集者がいる。いろんな出版社には、いろんな編集者の人がいた。しかも、出版社によって、なんとなく編集者のキャラクターにカラーがあるのが面白い。 デビューした講談社の編集者は、よく言えば真面目、違う言い方をするとネチっこいというか、しつこい人が多かった。特に、僕が初めて描いた頃の『週刊少年マガジン』の副編集長、Mさん。この人はもう、信じられないくらいに「し・つ・こ・い」人だった。僕も相当頑固なほうだったけれど、何しろ相手は副編集長で、7歳も年上だ。ちょっとでもネームの内容に納得できないところがあると、僕がそこを描き直すまで、Mさんは絶対に引き下がらなかった。 午前中にネームの打ち合わせで講談社に行って、ひとコマのギャグのことで議論になったが最後、夜の7時〜8時までご飯も食べずに、お互いにグウグウお腹を鳴らしながら、延々と攻防が続くのだ。当時はまだデビューしたてで、アシスタントもいなかったから、これ以上進行が遅れると締め切りに間に合わない。もう時間の限界だと思い、「わかりましたっ! 描き直しますっ!」と泣く泣く諦めたことも、一度や二度ではなかった。 ギャグの内容に関して、再三描き直しを要求されたけれど、そうなった理由は、Mさんの発想が古く、僕の新しいセンスがわかってもらえなかったからだと思う。僕はその後『週刊少年ジャンプ』で『ハレンチ学園』を描くことになるけれど、もし『マガジン』が僕のギャグを理解して、自由に描かせてくれていたら、『ハレンチ学園』は『マガジン』から出ていたかもしれない。まあ、とはいうものの、Mさんのおかげで逆に少年誌のタブーがわかったので、その結果「じゃあ、そこを描いてやろう」と『ハレンチ学園』を描いたともいえなくもない。とにかく、Mさんとの攻防は、編集者の考えを知る上でも、編集者との駆け引きを覚える上でも、本当に勉強になった。 Mさんと激闘を繰り広げた後は、僕も編集者との駆け引きがかなり上手くなり、議論になってもたいていの人は論破できるようになった。しかし、論破できなかったのが、やはり講談社のKさんだった。背が高い上に立ち上がって、座っている僕を上から見下ろして喋るし、弁論部出身だと思ったほど、目をいつもキラキラと輝かせながら雄弁に喋った。だから正確には、論破されたというより、迫力で負けてしまった形だ。しかも当時のKさんは、入社したばかりの新人で、僕は論破されると非常に悔しかった。Kさんはそのあと、『週刊モーニング』の名物編集長として知られることになった。 |
小学館・集英社の編集者は遊び人で、遊びならお酒も女性も何でもこい、という人が多かった。だから、僕への仕事の頼み方にしても、実に上手かった。小学館で初めて描いたのは、『まろ』という作品だったけれど、その担当になった『週刊少年サンデー』のKさんの作戦は巧妙だった。以前、一度決まっていた連載が『サンデー』編集部の都合で流れたことがあり、僕は「『サンデー』では二度とやるもんか!」とヘソを曲げていた。ところが『サンデー』は、僕のスタッフのOくんの連載を先に始めてしまい、Kさんがその担当として、ひんぱんに仕事場へ顔を出してくるようになった。何度も会っていると、だんだん話もするようになるから、最後には断りづらくなって、とうとう描いてしまった。 同じように根負けしたケースでは、『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)で『あばしり一家』を始めたときがそうだ。とにかくもう何度断っても、Nさんという編集長が毎日毎日来るものだから、応対しているだけでも時間がかかり、ほかの仕事に影響が出始めた。「もうこれだったら、描いたほうがいいや!」と、連載を引き受けてしまったのだ。比べると、小学館のKさんのほうが手が込んでいる。後で聞いた噂では、小学館では「永井豪に何としても連載させろ」という社長命令が出ていたというから、あちらも知恵を絞ったのだろう。そうそう、小学館では、毎日のように、今でいうソープランドから会社へ出勤している人もいた。この人については、頭文字も伏せておいてあげることにしよう。 昔の編集者は、無茶苦茶で「この人、よく首にならないな」と思う人があちこちにいた。仕事より遊びのほうが好きで、仕事場へ来ても「締め切りはいいから、遊びに行こうよ」という人も少なからずいた。作品の打ち合わせをやるにしても、雑誌も編集部もどうでもいい、オレの好きなマンガを作るんだ、という一匹狼タイプが多かった。一方で、まともに話が通じない人もいて、約束を反故(ほご)にされたり、こっちがそれを怒っても知らんぷり、という場合もあった。 今の編集者は、全体的にサラリーマン化したというか、官僚化したというか。実に真面目でキッチリしているのだけれど、豪傑タイプの面白い編集者はいなくなった。どちらがいいかとかは決められないけれど、人間的なパワーは、昔の編集者のほうがあったかもしれない。 <第63回/おわり>
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