マンガ家という職業は、画家と違って原画を売るのではなく、印刷物を売ることが仕事だ。別の言い方をすれば、マスメディアを通じて作品を送り出す仕事なわけで、個人の所蔵物を描いているのではない。そのために、下描きもちゃんと時間をかけているし、アシスタントを大勢雇って、鍛えて、作品のクオリティーを最大限保てるように努力している。でも、サインを頼まれると、立ったまま下描きもしないで絵を描くことになる。 |
マンガ家という職業は、小説家の人もそうだと思うけれど、直接ファンの方々の顔を見る機会は滅多にない。だからファンレターをもらったり、イベントなどでファンの方たちと会ったりするのは、すごく嬉しいものだ。また「よし、頑張ろう!」という意欲が湧いてくる。でも、ファンの方々と接することで、ちょっと困ってしまうこともないではない。それは、サインを求められることだ。 頂いたファンレターを読んでいると、たまに「サインを送ってください」と書き添えてある場合がある。申し訳ないけれど、このご希望にはお応えしないことにしているので、どうぞ悪しからずご了承ください。というのは、昔、こういうことが多かったからだ。サインをくださいというお手紙が来る。忙しくてそのままにしておくと、今度はその人がプレゼントを送ってくる。さすがに悪いなあ、と思って、サインを送ってあげたりする。すると、その次には「友だちの分も」と、言ってくる。それを断ると、「永井豪はファンに冷たい」と陰で言われたりする。きりがないし、折角サインを送ってあげてこれでは、非常に悲しい。 あるいは、パーティーに出席したりすると、知らない人に「ファンなんです」と話しかけられて、サインをねだられる。パーティーではお酒も飲みたいし、久しぶりに会った人と話もしたい。でも、一人に描いてあげると次々にファンの方が集まって来て、行列ができたりする。ちょっと、うんざりしてしまう。いよいよ時間がなくて「ごめんなさい」と謝って断ると、うらみがましい目で見られたりする。それが、「悪かったなあ」と、あとあとまで気になってしまう。また、相手がそれなりの方だったりすると、実に断りにくい。サインをねだられるだけ有り難いと思わなきゃ、とも考えるのだけれど……。 それに、サインを描く以上は、マンガ家としては名前だけというのも悪い気がして、何かキャラクターの絵を描いてあげることになる。それがまた、しんどい。マンガ家という職業は、画家と違って原画を売るのではなく、印刷物を売ることが仕事だ。別の言い方をすれば、マスメディアを通じて作品を送り出す仕事なわけで、個人の所蔵物を描いているのではない。そのために、下描きもちゃんと時間をかけているし、アシスタントを大勢雇って、鍛えて、作品のクオリティーを最大限保てるように努力している。でも、サインを頼まれると、立ったまま下描きもしないで絵を描くことになる。そういう絵を見られるのは、本当はイヤなのだ。もちろん、サイン会の場合は仕事の一部だし、誠心誠意描かせてもらっている。また、お世話になった方へのお礼として描く場合は、ちゃんと下描きもして、ゆっくり時間をかけて描いている。 最近は、「マネージャーがサインさせてくれないんですよ」という断り方をするようにしている。マネージャーはうらまれるだろうけど、まあ、うらまれて刺されても僕じゃないし。……いや、サインがもらえなくて刺す人はいないだろうし、マネージャーには我慢してもらっている。こうまでして断る理由には、このところ商売目的でサインを集める人が増えてきた、ということもある。マンガ家関係のパーティーをチェックしていて、会場の前で張っていて、お目当てのマンガ家が来ると、会場に潜り込んでサインをしつこくねだるのだ。そしてもらったサインは、ネットのオークションに出したり、マンガ古書店に売ってしまうらしい。昔は、今みたいにサインに値が付くようになるとは、思いもよらなかった。 |
自分がサインや色紙を描くのが苦手なので、自分自身が他の同業者にサインをお願いすることが、どうしてもできない。サイン1枚でも神経を使うし、疲れるし、大変なのを身に沁みて知っているからだ。それで、本当は尊敬する手塚先生にサインが欲しかったのだけれど、どうしても自分からねだることはできなかった。でも、幸運にも1冊だけ、サイン入りの贈呈本を頂くことができた。手塚先生のマンガ家40周年記念の解説書が出たときに、先生がサインして送ってくださったのだ。だから僕の本棚には、同じ本が2冊、サイン入りのとサイン無しのとがある。もう1冊は、発売日に自分で買ったものだ。
だからといって、ガッカリしないでほしい。ゴーストの描いたものは、世間的には、本人が描いた“本物”なのだ。ある時、ファンの子供たちが仕事場に来たとき、石ノ森先生と僕と他のアシスタントが並んで、「誰が石ノ森先生だと思う?」と聞いたことがあった。子供たちは全員、迷わずに僕を指さした。僕はもちろん、「よくわかったねー!」と言って、サインをしてあげた。石ノ森先生はもじゃもじゃ頭で、いつもむさくるしい格好をしていたし、イメージ的に、とてもこの人が『サイボーグ009』を描いているとは思えなかったのだ。その点僕は、まだ二十歳くらいでホッソリしていたし、上品で、ハンサムで、清潔感あふれる好青年で……えへへ。 でも、僕の奥さんは、「本物の石ノ森先生の色紙」を持っている。亡くなる少し前、入院されているときに、わざわざ描いてくださったのだ。手塚先生のサイン本と同時に、この二つのサインが、わが家の宝ということになるだろうか。 <第67回/おわり>
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