豪・GOシアター
COMENTS とにかく映画好きな豪ちゃんがその思いのたけを綴った映画エッセイ。とっても珍しい映画イラストもあり楽しい企画。しかし時間がかかる割に,ギャラが安く,やっていけなくなって終了したとの噂あり‥‥。ホントに映画が好きな豪ちゃんに触れられる貴重な資料だっ!「獅子王」(朝日ソノラマ・季刊)で1985年夏号(創刊号)から連載された。当初季刊であったが,86年10月号から月刊となった。

 1.1985年初夏号(創刊号)「禁断の砂の猿の惑星」
 2.1985年初秋号「エロチック電気が走らない‥‥」
 3.1986年初冬号「香港映画に驚いた‥‥」
 4.1986年初春号 BEST or WORST MOVIE「吸血鬼がいっぱい」
 5.1986年 夏号 BEST or WORST MOVIE「ゾンビだらけだぜ」
 6.1986年 秋号「僕と『ク・ロ・サ・ワ』ムービー」タイトルが「豪・GOシアター」に
 7.1986年10月号「俺とエイリアン」
 8.1986年11月号「東洋の神秘だぜ」
 9.1986年12月号「モノクロはオモクロイ」
10.1987年 1月号「ハリウッドの男達」
11.1987年 2月号「がんばれ悪党」
12.1987年 3月号「不思議の国の少女達」
13.1987年 4月号「アメリカン・シネマ・ナウ」
14.1987年 5月号「密室劇の天才シドニー・ルメット」
15.1987年 6月号「オーストラリアリズム」
16.1987年 7月号「戦争に行った夜」
17.1987年 8月号「ノスタルジ代」
18.1987年 9月号「マイ・アニメモリー」デビルマン登場
19.1987年10月号「デビジェル・ハート」
20.1987年11月号「ファンタスティックランド」オモライくん登場
21.1987年12月号「お祭り・ワッショイ!」
22.1988年 1月号「あれこれシアター」
23.1988年 2月号「ヒーロー考現学」

1988年 5月号 豪・GOシアター臨時増刊「第16回アボリアッツ 国際ファンタスティック映画祭スペシャル・レポート」

第1回「禁断の砂の猿の惑星」1985年初夏号(創刊号)P194-195
 記憶に残る最初の映画は『ザンバ』であった。昭和23,4年だと思う。アフリカのジャングルで遭難した少年が,こころやさしいゴリラに護られて,両親と再開するまでの物語だった。ライオンに狙われて,あわやという少年の前に,巨大なゴリラが出現し,ライオンをベア・ハッグで締め殺すシーンが記憶に鮮明に残っている。
 以来,怪物は俺にとってはヒーローとなった!
 小学2年の時,『キングコング』を観てさらにその思いは強くなり,小学3年の時の『ゴジラ』の出現により決定的となった。
 というわけで,俺,モンスター映画大好き人間だ。SFやホラーにのめり込んでいったのも,怪物の出やすいジャンルだったからかも知れない。
 近頃は,そのモンスター・ムービーが次から次とひきも切らず出てくるから,とても喜ばしい。今年もすでに,3G(『ゴースト・バスターズ』『グレムリン』『ゴジラ』)決戦から始まって,『砂の惑星』『ネバーエンディング・ストーリー』『スター・ファイター』『ターミネーター』ときている。この後も 『レザーバック』をはじめ続々とあるようだ。怪物ファンには,良い時代になったといえる。
『ターミネーター』は怪物ではない。ロボットだ,と言う人がいるかも知れないが,俺のいう怪物は,“怪物性”に重点をおいていて形態は何でもいい。したがって 『ターミネーター』のアンドロイドは極めつけの”怪物”であるし,『光る眼』の美少年も,怪物映画の白眉であった。
 しかし,このように多くの怪物ムービーが作られるようになると,出来の良し悪しを言いたくなるのが人情であろう。昔のように,チャチな怪物でも,「出さえすれば大喜び」とはいかなくなる。というわけで,今年の怪物映画の傑作と駄作について鋭く言っちゃおう!(もちろん俺の主観でだが)
 なんといっても今年の,というより今世紀怪物映画のの最大級の傑作といえるのが 『砂の惑星』だ。これは,まさに,百年に一本の傑作で,『2001年宇宙の旅』のように,永遠に残っていく記念碑的作品なのだ!この巨大な作品は映画百本分の値打ちがあるといっても言い過ぎではない。
 『砂の惑星』の凄さは“人間”および“人間の歴史”を精神面からとらえ,見事に映像化したところにある。『砂の惑星』は怪物映画の形で描いた“精神史”なのだ。
『砂の惑星』にまともな姿の人間は一人も出てこない。最初はまともな主人公さえも,青い眼になってしまう。それは,それらの人々の精神を姿に現しているからだ。
ハルコネン男爵のおぞましい姿は,彼の醜い欲望を表現している。奇怪なナビゲーターは,精神を宇宙的規模に拡大した老高僧をイメージ化したものだろう。
 青い眼は虐げられた人々(民衆)の抵抗の色である。では砂の怪物ウォームとは何なのか?
 ウォームを理解することが,『砂の惑星』のテーマを理解することになる。
 ウォームとは“人間の,歴史を動かす精神エネルギー”に他ならない!
 青い眼になった主人公ポールは,砂の怪物のウォームを手なずけ,制御し,やがて自在に操ることにより革命を成功させ,英雄となる。これは主人公が民衆の心をつかみ,爆発する民衆の大きなエネルギーを自分のものとして操り理想を実現させていく過程を表している。
 さて,今年の最悪の怪物映画に触れてしまおう。悲しいことに 『ゴジラ』であった。「一作目の,『ゴジラ』に戻る作品にする」という言葉に大期待をかけた俺がバカだった!見終わった後,「あれはゴジラじゃない!」と心の中で叫びつつ夜の待ちを彷徨ってしまった。
 一作目の 『ゴジラ』が何故凄かったのか。それはゴジラが人類の想像をはるかに超える“未知の生物”だったからだ。人類が“地球最強の生命体である”というアイデンティティを破壊する存在だからだ。ところが今回の 『ゴジラ』は制作者側ゴジラを見限ってしまっている。「ゴジラの能力はこの程度」,こうやって,やっつければいい」という見くびりが見え見えだから面白くなるはずがない。新ゴジラを作るにあたり,核ミサイル攻撃で,ゴジラは簡単に死んでしまう,というわけだ。
 一体何を考えているのか?一作目のゴジラは“核”そのものだったから恐ろしかったことを忘れている。
 一作目でのゴジラは“生きる原爆”だった。原爆実験により眠りを覚まされ,キノコ雲をイメージした顔をもち原爆の破壊力が生命体に宿る“怪物”だったからこそ,あらゆる怪獣映画を超える傑作映画となったのだ。したがってゴジラは,核によって生まれることはあっても,核で死ぬことはあってはならないのだ。
 今回の失敗のもうひとつの原因に,リアリティの不足が挙げられる。いうまでもなくゴジラは架空の生物,つまりウソの生物だ。ウソをホントらしく見せられるか否かが成功の鍵なのだ。それには,まわりの状況をどこまでリアルに見せられるかにかかってくる。
 一作目の成功もそこにあった。ニュース・フィルムを感じさせるドキュメンタリー・タッチの演出がリアル感をもたらせ,ウソのゴジラを本物に見せていたのだ。
 ところが新作ゴジラはウソのゴジラに加え,さらに大ウソの“スーパーX”を登場させる。ウソが二重になると若干のリアリティも吹き飛んでしまう。こういうのを「ウソの上塗り」をいう。
 演技のシロウトのヒロインに,今時どこにもいないような古いタイプの“女”を演じさせているのも問題だ。生地のままの現代っ娘らしさを生かせればリアリティも出たはずだ。
 そして何よりもゴジラがちっとも巨きく見えないのには困ってしまった。ゴジラを大きく見せるためにはその他のものを小さく撮る必要がある。
 ところが,やたらと首相を演じる小林桂樹の顔のどアップが目立つ演出になっている。これではゴジラより小林桂樹の方がデカく見えるのが当たり前だ。クライマックスで,ゴジラと首相が取っ組み合いをして決着をつけてもおかしくない演出だった。
 このように失望させられた新 『ゴジラ』だがさすがに東宝は,このままゴジラを埋もらせることはしなかった。「ゴジラ復活・第2弾」ストーリー募集の広告がそれである。それも三百万円も賞金つきである。シナリオに金をかけない日本の映画界に異例の大英断だと思う。
 これならば,真のゴジラファンによる理想的なストーリーが生まれ,再び世界に通用する怪物映画が日本から生まれることだろう,と俺は「ゴジラ復活・第2弾」に熱い期待を燃やしている。
「ガンバレ!ゴジラ」
豪ちゃんの頭の中は怪物映画でいっぱい‥‥。
ゴジラ
ジョーズ
ダースベイダー
エイリアン
フランケンシュタイン
狼男
ドラキュラ
キングコング
ターミネーター‥‥

第2回「エロチック電気が走らない‥‥」1985年初秋号 P62-63
 俺,男ばかりの五人兄弟の四番目だ。
 一番上の兄貴とは十四も年がはなれている。その一番上の兄貴が映画マニアだった。キネマ旬報を創刊からのこらず持っていた。戦後すぐの頃のワラ半紙で作ったようなミジメっぽいキネマ旬報まであった。俺,物心ついた頃からそのキネマ旬報の山をなめるように見ながら育った。
 そのおかげで映画芸術に対する目覚めも早く,空想力を高めるのにも役だった。子供なので見に行けない映画もキネマ旬報の写真や文から想像して見たつもりになったりしていた。  二番目の兄貴は興奮症でおしゃべりだ。自分が見てきた映画を身振り手振りで面白おかしく克明に話してくれた。その兄貴の話とキネマ旬報を合わせて想像すると俺のイメージの中の映画はより完璧なものとなった。
 そうやって見たつもりの映画のチャップリンの『モダンタイムス』は後年,大人になってから本当に見た時に自分で想像していたものを各シーンがあまりにそっくりなのでビックリしてしまった。
 美女のヌードに興味を持ったのもキネマ旬報の写真からだ。『夜ごとの美女』のジーナ・ロロブリジーダのスケスケのアラビアンナイト風の衣装をドキドキしながら見ていたり,『ボルジア家の毒薬』のマルチーヌ・キャロルの妖しいヌードに悩みその一部がはじけとんだりしていたのだ。
 今では美女のヌードなどはめずらしくもなんともないのだが,当時(五十年代前半)はめずらしいのなんのって,めったにおがめるものではなかった。ことに小学校低学年の俺にはそうだった。
 マルチーヌ・キャロルというのはブリジット・バルドーが現れる以前のフランスの脱ぐスターとして有名な方だった。『女優ナナ』のマルチーヌの黒の下着姿にもビックリこいた。黒の穴だらけのレースのブラジャーとガードルに黒靴下,ハイヒールといういでたちに,女の下着は腰巻か木綿のズロースだと思っていた俺にはカルチャーショックだった。『浮気なカロリーヌ』では入浴シーンで乳房を見せたらしく大人の間で騒ぎになっていると聞いて頭に血が上って悶えてしまった(なんという小学生低学年なのだ)。
 キネマ旬報情報でそのマルチーヌ・キャロルがついに全裸になるという記事を見た時には自分が子供であることを呪った。(よーし,大人になったら必ずマルチーヌ・キャロルの裸を見るぞー)と誓ったものだ。しかし残念ながら未だに見れないでいるのだが(マルチーヌ・キャロル1967年,45才の若さで急死)。
 俺が初めて美女の裸を映画で見るという幸運に出会ったのは中学一年の時だった。ミレーヌ・ドモンジョの『女は1回勝負をする』というサスペンス映画だ。大富豪の財産をねらう悪の美女ドモンジョが大富豪を誘惑しその妻を完全犯罪で殺し結婚し,さらにその夫となった男を殺して財産を一人じめにするというような話だったと思うが,ストーリーよりなにより予期せぬ(ヌードの出る映画とは知らなかった)ドモンジョのヌードに度肝をぬかれてしまった。
 モーターボートを止めて夜の海をのんびり眺めていた大富豪の目の前にいきなり全裸のミレーヌ・ドモンジョが,ガバーッ!と水しぶき共にモーターボートに上がってきたのだ。  デビュー間もないドモンジョの若々しいボリュームたっぷりの肉体が下腹のイケナイトコロぎりぎりまでもが,一瞬のうちにモーターボートのへりからとび出した。(ワッ!し,白い,や,柔らかそう,き,きれい,プルン,プルンしてる,キャーまるい,ふくらんでる,ヤダー,ウッソー,む,胸が。あ,あ,あれがオッパイというものだろうか?肉まんだろうか,アンパンだろうか?)その瞬間いろんな感動が俺の頭の中を駆けめぐり,体中をいろんなエロチック電気がピリピリと走り回った。
 その時の感動をなんと表したらいいのだろうか!?(あ〜生まれてきて良かったーっ,生きていて良かったー,この世には美しいものがあった!この汚れきった世の中に究極の美があったのだ,それは裸だ!若く美しい女の裸だー!)というぐらいの感動だった。ただ惰性で生きていた俺が初めて生きる目的を見い出した瞬間だった。(俺はこの美しいもののために生きるぞー!)。
 未だに,その時の熱い感動を忘れずにいる俺は美人女優が初めて脱いだと聞くと矢も楯もたまらず,すっ飛んでいく。『殺意の夏』で美人女優イザベル・アジャーニが脱いだのだ。『アデルの恋の物語』でのイザベルの美しさが頭の中を駆けめぐる。  たしかにイザベル・アジャーニのヌードは美しかった。顔もきれい,スタイルもみごとだ。ミレーヌ・ドモンジョの時のようにモノクロではないしチラッと一瞬だけ見せてくれる程度でもない。色んなポーズでもうタップリ見せてくれるのだが,なぜかあの時の感動がないのだ。(おかしい,へんだ?)体の中をエロチック電気も走らない。(体の調子が悪いのだろうか?)それとも(俺が大人になっちゃって感受性がにぶくなっちゃったとでもいうのか?)。
 いや,そうではない,俺がにぶくなったわけでも,イザベルがミレーヌより魅力がないわけでもない。こ,これは世の中が悪い!時代が悪いのだ。今はあまりにヌードが氾濫しすぎているせいだ。雑誌のグラビアに,テレビに,マンガ(これは俺のせいだけど)にヌード,ヌードの山なのだから。
 そんなわけでタップリ裸をサービスしてくれた『殺意の夏』のイザベルより,同じフランス映画だがトリフォーの遺作『日曜日が待ち遠しい!』に出た,まったく脱がないファニー・アルダンの方がはるかに色っぽく感じられる今日このごろだ。

す,凄い‥‥豪ちゃんがVitasexualisを
カミングアウトだ〜。まさかキネマ旬報
とは‥‥。さすが空想っ子,潔少年!

第3回「香港映画に驚いた‥‥」1986年初冬号 P28-29
 今年の映画界の新しい動きに東京国際映画祭があった。中でも俺が喜んだのは、もちろんフアンタスティック映画祭だ。
 日本で一般公開されるかどうか分らないファンタジー映画が一度にどっさり見られるなんて俺にとっては夢みたいな話で思わず「ファンタスティック!」と叫んでしまった。
 しかしなにしろ過密スケジュールなので、そうとう見のがしてしまった。どうしても見たかった『エルム街の悪夢』はマンガの締め切りのため、『最後の戦い』は自分がSFXミュージアムに出場のためやむなく、む、無念!
 そのファンタスティック映画祭で見た作品の中で面白かったものや、驚いたもののことを書くとしよう。
 ナチス時代の亡霊にとりつかれる少女を描いたイギリス映画『コールド・ルーム』は、どっしりとしたリアリティのある演出で恐怖感をもり上げる。こ、こわい!本物の幽霊って、こんな感じなんだよねー。
『指輪物語』のラルフ・バクシが1千万ドルもの製作費をかけて作り上げたアニメ『ファイヤー&アイス』は俺の大好きなファンタジー・イラストレーター、フランク・フラゼッタのキャラクターがラルフ・バクシ得意のロトスコーピング方式によって生き生きと動き回る、うれしい作品だ。
 俳優のライブ・アクションを撮影し、そのフィルムの1コマ1コマをセルにおこしていくロトスコーピング方式にますますみがきがかかりチャンバラ・アクションのシーンなどがなんともかつこいい、ストーリーもいかにもヒロイック・ファンタジーしてて、うれしいかぎりなのだ。『指捨物語』がこけたからといって『ファイヤー&アイス』を公開してくれないなんて、「そりゃーないぜ!」と言いたい。
『ラビッド』『ブルード』『スキャナーズ』『ヴィデオドローム』と異色の作品を作ってきたカナダの監督デビット・クローネンバーグの『デッドゾーン』は交通事故で予知能力を得た男の物語をサスペンスタッチで描いた傑作だ。これまでの作品のようにグロっぽいSFXの見せ場はないけれど映画の出来としては最高だ。
 驚いた作品はというと、なんといっても香港映画だ。香港映画初の本格的SFX映画『蜀山』はユン・ピョウとサモ・ハン・キンポー主演の仙人と魔物の戦いを描いたファンタジー・アクション映画だ。
 ジャッキー・チェンの『プロジエクトA』以来ジャッキー・チェン同様、かれらのファンになっている俺は大いに期待して見た。そして驚いた!
 いやはや凄いのなんのって、あのカンフーの凄まじい動きに加え敵味方入り乱れ、超スピードで空は飛ぶは、体からいろんな色の光線は出すは、武器はピユンピユンぶっ飛ばすはで、けたたましいばかりのにぎやかさなのだ。
 ウワー!これは面白い、こんな凄いアクション映画はめったにないと最初のうちは興奮して見ていたのだが、なんとこのけたたましいアクションシーンが最初から最後まで、ズーッと切れめなく続くのだ。ストーリーも何もかも二の次でアクション、アクション、アクション。これでもか、これでもか、これでもかの連続技なのだ。
 たとえで言えば、こってりしたアクションの中華料理をフルコース三人前で短い時間のうちに食べさせられた感じの映画なのだ。日本人の感覚では「もう少し息抜きがあればな一」とか「お話がもっとないとな一」と感じちゃうと思うけど、やはりこれは中華料理の国とごはんにおさしみの国の差かもしれない。
 同じく香港映画の『山中博奇』は古い中国の怪談を数々の国際映画賞に輝く名監督キン・フーが重厚なタッチで描いた作品だ。で、これもやはり重厚な中華料理のフルコースを三人前。(しかしこれらの香港映画のもの凄いエネルギーは日本の映画が失って久しいものではないだろうか?)などと考えながら中華料理を食べて帰つたファンタスティックな夜だった。

↑映画祭でのカンチュウハイサービスに
 ご満悦の豪ちゃん!

←豪ちゃんの香港映画
 ほぼA5大の迫力ある絵だ

第9回「モノクロはオモクロイ」1986年12月号 P40-41
 最近ふと大昔の映画が見たくなって,オリジナル・モノクロ版『キングコング』のレーザーディスクを買ってみた。俺がこの映画を見たのは小学校2・3年で『ゴジラ』より少し前だったように思う。
 もちろんこの映画がアメリカで公開されたのは,『ゴジラ』よりもずっと前の1933年で,俺なんか生まれてもいなかったんだけど(誰だい,生まれていたろうなんて言うやつは,俺はそんなジジィでね〜ぜ)ともかく俺はその頃見たわけだ。
 で,当時とても怖いと思った人形アニメで動くキングコングが,どの程度のものだったのかを改めて確かめて見たかったわけだけど,今見てもなかなかの,ド迫力もので驚いてしまった。(子供の時に怖いと思ったのは,無理ね〜ぜ)
 人形アニメのキングコングがだから少しギクシャクしたところはあるものの,細かい顔の表情まで動かしていて,とても50年以上も前の映画とは思えない出来だ。リメーク版『キングコング』でリックベーカーの作った,ぬいぐるみのキングコング(このぬいぐるみは,俺がリックベーカーのスタジオに行った時に,隅っこの壁に放り出されていたぜ)にまけぬ迫力を出しているのだ。正にSFX映画のパイオニアともいうべき傑作だった。
 そしてこの映画で感じたのは,モノクロ映画には不思議なリアリティーがあるということだ。もちろんこの『キングコング』は,ウソっぽいジャングル・モンスター物で,出てくる前世紀の怪物たちの動きもキングコング同様ギクシャクしているのだが,なんとなく昔のジャングルだったら,こんなこともあったのかもしれないと思ってしまうのだ。つまりこの映画の世界に,のって見てしまうというわけだ。
 どうもなぜか俺は,カラー映画よりもモノクロ映画にリアルさを感じてしまうようだ。これはもしかするとニュース映画(ニュース映画って知ってますよね?昔映画館で映画を上映する前に,たいていやったニュースフィルムで,竹脇無我のお父ちゃんのナレーションなんかが入っていたりした。テレビの発達と共に消えていった)育ちのせいかもしれない。つまりモノクロは本当のこと(ノンフィクション)で,カラーはフィクションと言う感じが身についているのかもしれないのだけど,そうでないのかも知れない。
 モノクロ映画にこだわる人はたくさんいるようで,角川映画の『麻雀放浪記』では監督の和田誠さんが,終戦直後のあの時代の色はモノクロでなければならないといって,たしかにあの年代を感じさせる,とても良い雰囲気の作品にした。現在ではモノクロの方がフィルム現像が高くつくというのにだ。
 モノクロが年代を感じさせるのは一つにはモノクロが昔の映画,カラーが現代の映画という固定観念からきていることもいえる。なんといってもカラー映画の歴史は新しく,モノクロは一昔前の映画だからだ。そこを和田監督はうまく利用して,一昔前の時代感をだしたのだろう。
 また貧乏な世界を描くのにもモノクロが合っている。イタリアン・ネオリアリズムの傑作ビットリオ・デ・シーカの『靴みがき』や,『自転車泥棒』もモノクロの画面がせつなさをよぶ。同じく,デ・シーカ監督の貧乏ファンタジー(こういうジャンル名が,あるかどうか知らないが)の傑作『ミラノの奇蹟』も,浮浪者にちかい人達の生活ぶりを描くモノクロ画面が,面白い効果を上げている。
 日本の映画でも貧乏を描いたものはモノクロの方がしっくりくるようだ。貧しく,きびしい島の農民を描いた新藤兼人の名作『裸の島』や,小栗康平の『泥の川』など,貧しさの中の愛や悲しみがモノクロの画面によって鋭く伝わってくるのだ。
 最近アメリカでも,昔のモノクロの映画をコンピューターによる彩色でカラー化してテレビ放送することが多いが,ハリウッドの映画監督たちを中心とした人達による,猛烈な反対運動がおこっているそうだ。
 たとえばオーソン・ウェルズの名作『市民ケーン』の,背広の色などを決めてしまうのは創造的行為であって,作者のオーソン・ウェルズ以外の者がやってはならないことだというわけだ。もちろんこの問題には著作権の侵害といったことも関係しているが,モノクロの名作をカラーで見たくないという気持ちが,反対している人達に強くあるのだと思う。(俺も反対だい)
 モノクロとカラーを,うまく使い分けた作品もいろいろある。黒沢監督の『天国と地獄』では,1シーンだけのカラーで見事な効果を上げたし,ライザ・ミネリのお母ちゃん,ジュディー・ガーランドの『オズの魔法使い』では,現実世界をモノクロでファンタジーの世界をカラーで作っている。
 そのせいで『オズの魔法使い』では,現実のシリアスな感じと,カラフルで楽しげな空想の世界とが,はっきりと,文字通り色分けされているのだった。現実も空想もオズの世界も,似たような恐ろしげな感じになってしまった続編とは,そこが大いに違うのだ。
 最近も魅力的なモノクロ映画が,何本か作られている。無声映画の雰囲気を面白く出した『夢見るように眠りたい』や,なにげない日常をファンタジーのように見せてくれた『ストレンジャー・ザン・パラダイス』や,中世のきびしい風土を感じさせてくれた,ソ連映画の『リア王』などの異色作だ。
 また大林宣彦監督の『野ゆき山ゆき海べゆき』は劇場によってカラー版と,モノクロ版との両方が上映されるそうで,できればその両方を見てみて印象を比べてみたいものだと思っている。

     ↑モノクロ豪ちゃん!

←上:豪ちゃんの筆によるキングコングだ!
 下右:「リックのスタジオで
       コングのぬいぐるみを見る俺」
 下左:「この日はビデオドロームの
    ピストルになりかけの手を作っていた」

第10回「ハリウッドの男達」1987年1月号 P32-33
 突然「モダンプロップ」のジョン・ザブルッキーから,六本木に来ているからと自宅に電話が入った。「モダンプロップ」というのは,ハリウッドでSF映画の大道具,小道具のデザインと,制作をしている会社で,ジョンというのはそこのデザイナーで,社長である。
「モダンプロップ」が手がけたSF映画は,やたらと数が多く『スタートレック』やら『ブレードランナー』やら色々だ。たとえば『スタートレック』では,宇宙船のコックピットやエンジンルーム,乗組員の持つ未来の銃などをデザイン製作していて,最近だと『スターファイター』『エレクトリックドリーム』などをやっている。『SFソードキル』で,氷づけの侍が蘇生する医療ベッドなども「モダンプロップ」の仕事だった。
 俺が五年ほど前に行った,彼のハリウッドのプロダクションは壮観だった。なにしろ製作するスペースより,これまでに作ったSF映画の大道具,小道具をきれいに並べて置いてあるスペースの方が広いのだ。それはちょっとしたSF映画の博物館といったところで,いろんなSF映画で見た覚えのある未来兵器や未来家具などが,ところ狭しと置いてあり,その一つ,一つが,しっかりとした作りになっている。
 日本映画のように,木の棒に銀のペイントを塗ってスチールに見せるようなことはしない。スチールはスチール,プラスチックのところはプラスチックでと,がんじょうに作ってあり何度でも使用に耐える物ばかりで,特に家具などはデザインこそ変わっているものの,現実に使用可能の物ばかりだった。
「モダンプロップ」にSF博物館よろしく,これまでの作品が置いてある理由は,これらの物を一度きりにしないで再び貸し出すからで,低予算の映画などは新しく大道具,小道具などを作ってはいられないから,「モダンプロップ」が過去に作った大道具などを借りて作るわけだ。
 ただ過去の映画とイメージが似てしまってはまずいので,たとえば『スタートレック』『ブレードランナー』の大道具をまぜて,違う雰囲気(色を塗り替えたりもする)にして使ったりもする。そんなわけで二度,三度と使えるからこそ,一つ一つの大道具,小道具にお金をかけて良い物を作れる。このようにハリウッドSFのリアリティは,「モダンプロップ」のようなサイドの会社によっても,ささえられていることが良く分かるのだった。
 ジョンとホテルのロビーで待ち合わせることにして,その日の夜,約束の時間に出かけて行った。ホテルに着いてみると,見なれぬ外人が二人,ロビーをうろついている。一人は小柄で眼鏡をかけ,ガバガバの半ズボン,モヒカンぽい髪,ジャングルに探検にでも来たような格好で,もう一人は,二メーターちかい長身で,スマートな体をヘビ・メタファッションできめ,金髪を肩までたらしている。どうひいきめに見ても,まともな外人コンビではない。これはきっとジョンの関係者に違いないと感じ話しかけてみたところ,やはり「モダンプロップ」の社員であった。半ズボンがスチーブ,ヘビメタがクリスという名だった。
 そこにジョンが「ディーボ」のジェリーとやってきた。「ディーボ」というのは,ちょい昔にヒットを何本も出したロックのグループで,ジェリーはその「ディーボ」でベースを弾いている。ジョンとジェリーは親友で,同じ家で(でもホモではないらしい)暮らしてる。ジョンは「モダンプロップ」が大成功して,数倍のでっかい会社になったと喜んでいたので週末に我が家でパーティーを開いてあげることにした。
 ジョンが来日してから,すぐに東京ファンタスティック映画祭が始まった。これは去年の東京国際映画祭のうちで,好評だった分野であるファンタスティック映画祭だけを,独立させて続ける企画で,フランスのアボリアッツのファンタスティック映画祭に感動した小松沢陽一氏が,なんとかあの感動を日本にも伝えたいと思いプロデュースしたものだ。
 今回も前回同様,SFとホラーがいっぱいのラインアップで,「ドレモコレモミターイ!」ともだえ狂っていたのだが,うまいぐあいに小松沢さんが映画祭のフリーパスをくれるという。そのかわり映画祭の劇場に出て『ダークスター』の解説をしてほしいとのことだった。
『ダークスター』は大好きだし,フリーパスにつられて,おもわずひきうけてしまった俺だったけど,仕事のスケジュールがきつく,毎日フリーパスを握りしめながら泣く泣くマンガを書くはめとなり,結局,何も見きれないうちに『ダークスター』の上映日(最終日の前夜)がきてしまった。
『ダークスター』の解説を無事おえて帰るところで,小松沢さんが,「明日,トビー・フーパーに会いませんか」と言ってくれた。ファンタスティック映画祭の閉会式の後でパーティーがあるからその後に紹介してくれるという。
 この少し前のSFXアカデミー出演のために来日していた『ターミネーター』『エイリアン2』のジェイムズ・キャメロン(この人とは五,六年前にロジャー・コーマンのプロダクションを見学に行った時に会っている。『ギャラクシー・オブ・テラー』の怪物を,ノミやシラミの拡大写真を見ながらデザインしていたっけ)とは握手しただけで話ができなかったので,フーパー氏に会うことにがぜん興味が出てきてしまった。
 トビー・フーパーは『悪魔のいけにえ』でドギモを抜かれて以来,ずっとファンだ。ことに『スペースバンパイア』は,バンパイアがヌードの美女という俺の好きな設定だったこともあって,レーザーディスクでくり返し見ている。
 パーティーだけ行くというのもなんなので,映画祭のラストの一本を見ることにした。(ワーイ!やっとフリーパスが使えたぜ)ファンタスティック映画祭のラストを飾る作品はジョン・カーペンターの『ゴースト・ハンターズ』だった。
『ゴースト・ハンターズ』は,カーペンターが香港映画のノリで『インディ・ジョーンズ』を作ったような作品で,軽いながらもけっこう楽しませてくれる。妖術のオプチカルを使ったSFXがふんだんに出てきてマンガチックな迫力シーンの連続だ。虚無僧姿の妖術使いには笑ってしまったが,日本の忍者映画もこのセンスで作ればそうとう面白いものができると思うのだ。
 トビー・フーパー氏は日本に来て大歓迎され,よっぽど嬉しかったとみえパーティーでは,すっかりまいあがっていた。この人アメリカではインタビューにも応じないし,人前に出るのもいやるそうだ。アメリカの批評かはしんらつらしいから,よっぽど,たたかれているのかもしれないなーと思いつつ,ついつい,かわいそうな人を見る目で見てしまった。
 フーパーさんは子供の頃から親に映画館ばかりつれて行かれていたので,映画館が遊び場だったそうな。少し大きくなるとすぐにカメラを買ってもらい映画を撮ってばかりいたんだそうだ。
 俺はフーパーさんの作品の中で,『ライフフォース』『スペースバンパイア』の原題)が一番好きだよと言ったら,とても嬉しそうだった。本人も気に入っている作品なのかもしれない。
「モダンプロップ」のジョンたちは我が家で大騒ぎをして帰って行った。クリスは日本アニメの大ファン。取材に来たヒロメディアの社長にアニメのセルをもらって大感激していた。スチーブは俺のいろんなオモチャが気に入って,ずっとロボットで遊んでいた。
 ジョンは電動のマッサージ椅子が気に入ってモミモミしっぱなしだった。アメリカにはなかったらしく,今度,映画に使うからカタログを送ってくれと頼まれてしまった。「ディーボ」のジェリーはTOTOの「ウォシュレット」が気に入ってトイレからなかなか出てこなかった。
 陽気でサービス精神旺盛な彼らは,俺の刀や鎖ガマを使ってチャンバラのパフォーマンスをやってくれたりして,俺にとってもとても楽しい一日でありました。


←豪ちゃんのハリウッドフレンズ
 左上クリス,右上スチーブ
 左下ジョン(モダンプロップ社長)
 右下ジェリー(ディーボのベーシスト)

第11回「がんばれ悪党」1987年2月号 P60-61
 俺は悪党が好きだ。とは言っても現実の悪党が好きなわけではないよ。現実の中には魅力的な悪党などいるわけないし、もしもいたとしても、そんな奴とつきあってしまったら、どんな目に遭わされるか分かったものではないだろう。俺がつきあいたいのは、もちろんスクリーンの中の悪党だ。
 現実に出会えないだけに、映画に出てくる悪党は魅力にあふれているぜ。たとえヒーローにやられる運命にあるとしても、かっこいい悪党は、強く見る者の印象に残って、しばしば主役のヒーローを喰ってしまうのだ。
『ベラクルス』というゲーリー・クーパー主演の西部劇で黒ずくめの悪党を演じたバート・ランカスターが、主役以上の人気を得て、その後はスターの道をまっしぐらに走ったのは有名な話だし、存在自体が悪の権化ゴジラが、しだいにヘドラや、コングと戦う正義のヒーローになっていったり、最近でも『ナイトホークス』や、『ブレードランナー』の敵役、ルトガー・ハウァーが人気を得て、主演スターになったりと、枚挙にいとまがない。
 現実には忌み嫌われる悪党が、映画の中では魅力的に見える理由は明白だ。ぼくら映画観客の心の中に、悪党になりたい願望がひそかにあるからだ。それは現代のような管理社会においては、誰もが当然もちうる欲望だろう。ルールでいっぱいの社会から少しでもはみだしてみたいという、自由へのあこがれのようなものかもしれない。それだけに真に魅力的な悪党が描かれた映画は、強く印象に残ることになる。
 そしてそんな悪党をきわだててしまうのは、ヒーローとの対比においてが多い。ゆえに「ヒーロー物」の映画には、必ずといっていいほどに、憎たらしく、格好いい悪党が描かれることになるのだ。たとえばそれは『ポパイ』におけるブルートであり、『スーパーマン』におけるゾッド将軍であり、『ターザン』シリーズにおける悪い白人(これはちょっと弱い。山川惣治の『少年王者』に「ウ〜ラ〜、ウ〜ラ〜」と叫ぴながら出てくる魔神ウーラーぐらいの迫力のある悪党がほしいところだ)。  またスパイヒーロ−『007』シリーズで007ジェイムズ・ボンドの前に立ちふさがる、巨大な犯罪組織のボスであり、またその殺し屋でもあるのだ。それら「ヒーロー物」の悪のキャラクターの中で、最も強烈な印象を与えてくれたのが『スターウォーズ』の、暗黒仮面の騎士ダースベーダーだろう。ハイスピードで逃げる、レイア姫の宇宙船をとらえる巨大宇宙戦艦。白煙とレーザー光線が飛びかう中に、ゆうぜんと現れる黒仮面、黒マント、全身黒ずくめの異様な姿。機械で増幅された、奇怪な呼吸音と声。他を圧倒する存在感を持つ、この悪党が現れた瞬間に映画『スターウォーズ』の世界的な大ヒットは決定したと言っても言いすぎではないだろう。  それだけに、第三作『スターウォーズ・ジェダイの復讐』におけるダースベーダーの最期は残念だ。あれだけの悪の権化が、ルークの父であることに目覚め改心してしまうなんて、つまんね〜ぜ。あのすばらしい暗黒仮面を脱いで人のよさそうなハゲのおっさんの顔なんか見せないでほしっかった。それでもってルークと涙のご対面など、とんでもね〜ぜ。仮面を脱いだら、もっと恐ろしい化け物ヅラが出てきて、ビックりしたルークに「やっぱり、てめーなんざ父じゃね−や」と叩き殺されてほしかった。悪党は悪党のまま殺されてこそ格好いいんだぜ。そうでなくては、ダースベーダーの命令で死んでいった子分達の立場ね〜ぜ。がんばれ悪党!  そういった「ヒーロー物」ではないけれど、悪党が出なくては話しにならないのが犯罪物の映画だ。名探偵の鋭い推理によって初めて悪のベールを脱ぐ犯罪者はその正体が意外であるほど悪の魅力が増すのだ。  また『暗黒街の顔役』のジョージ・ラフトや、『白熱』のジェームズ・キャグニーや、『必死の逃亡者』のハンフリー・ボガートなどの、暗黒街のギャング達のすさまじい生きざまは、哀愁さえもただよわせるのだ。
 悪党のきわめつけは「ホラー物」だ。とはいってもこの場合、悪党は色んなふうに形を変える。もちろん人間(『サイコ』『13日の金曜日』のシリーズのように狂気の殺人者のパターンなど)であることも多いのだか、『ジョーズ』『ピラニア』のような人食い魚や、『放射能X』『アリゲーター』『レイザーバック』やらの巨大化した生物であったりもする。
 また『エイリアン』『スペースバンパイア』のように宇宙の怪物であったり、『フランケンシュタイン』のような人造人間や『ブレードランナー』のレプリカントや『ウェストワールド』『ターミネーター』のようなアンドロイドだったり、さらには『スペースサタン』のロボットや『激突』のトラックのように無生物であることもある。
「オカルト・ホラー物」の『吸血鬼ドラキュラ』『ハウリング』『ヘルナイト』の狼男。『エクソシスト』の姿の見えない悪霊や、『シャイニング』の幽霊や、『死霊のはらわた』『死霊のえじき』のようなゾンビであったりもする。変わったところでは『エルム街の悪夢』のように人の夢の中に出入りする殺人鬼であったりと、まさに百花繚乱、百鬼夜行のにぎわいだ。
 俺には、さすがに幽霊やゾンビは魅力あふれる悪党とは言いがたいのだけれども、うちの(ダイナミックプロ)の若いマンガ家でゾンビが一番、感情移入しやすいと言う奴がいるのだから、それらもやはり人によっては、魅力約な悪党ということになるのだろう。
 また『1984』や、『未来世紀・ブラジル』のように人間ではなくて、社会構造そのものが人間性を無視した悪であったりして、得体の知れない恐ろしさを出しているものもあるじこれらも特殊な悪党の一種であるとしよう。
 とまぁー、こういった諸々の悪党があるのだけど、最近、映画はつまらないのに悪党は面白かったどいうのかあった。『グレイストーク』のターザン役、クリストファ−・ランパートが主演する、『ハイランダー悪魔の戦士』という作品だ。首を切り離さなければ死なないという不死の戦士達の話たが、彼らが不死身である理由や、殺し合わねばならない必然性があいまいで、いまいち盛り上がらない。チャンバラシーンも大げさなわりには、相手を倒すより、回りの物を壊すのに夢中だったりで、ちっとも緊迫感がない。これではお客がハイランダーろう、なのだが、この作品の悪党は凄い。クリストファー・ランパートと対決する悪の戦士クルガンに扮するクランシ−・ブラウンがいいのだ。
 シェニファー・ビールスとスティングが主演した『ブライド』ではフランケンシユタインの怪物をいい感じで演じた俳優だ。あのフランケンシユタインは人のいい怪物だったが、こんどのクルガンは恐ろしい。不気味な目に、190センチの体格、地の底から響くような声と凄まじい。ひさびさにヌイグルミなしでやれる怪物俳優だ。俺はすっかり惚れちまったぜ。次の作品が楽しみだ。
 とまぁ−こんな悪党達に次々と会えるから映画は楽しい。これからどんな悪党が出てくるかと、いつも楽しみに待っている俺なのだ。


↑悪党になった豪ちゃん??
←豪ちゃんの筆によるダースベイダー!

第12回「不思議の国の少女達」1987年3月号 P30-31
 俺達,男にとって少女は永遠に謎であり,「異次元のファンタジー・不思議の国の幻想」をかきたてる触媒のようなものであるらしい。この一年ほどの間に,そのような少女を象徴した映画が,たくさんあった。
 残忍な祖母に娼婦にしたて上げられて,むごい性のしうちを受ける少女を幻想的に描く,ノーベル賞作家ガルシア・マルケスの小説を映画化した,リュイ・グェッラの『エレンディラ』,思春期の少女の,性の悪夢の連続を映像化したようなニール・ジョーダンの『狼の血族』,少女の空想が幻のフランケンシュタインとの出会いを実現させるビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』,現実の世界から,謎の消失をとげる美しい天使のような少女達を描いた,ピーター・ウェアーの『ピクニックatハンギングロック』,空想の異世界に,じっさいに迷い込んでしまう少女を描いたジム・ヘンソンの『ラビリンス』など。盛りだくさんなのだが,どれも少女という「存在」を使い,幻想の世界を感じさせようというものばかりだ。
 肉体が女性でありながら,女性になりきっていないことのあやうさや,男には分からない女性の生理が始まろうとしていること等の女性の性への興味,それでいて精神構造は女性そのものという存在の不思議さが,男達の創作意欲を駆りたてるのだろう。そんなわけで少女と不思議とよく似あう。
 そうした少女と空想の世界を描いた世界的に有名な小説に,ルイス・キャロルの童話『不思議の国のアリス』がある。そのアリスのモデルであるアリス・リデルと,その作者ルイス・キャロルことチャールズ・ドジソンを主人公にして,アリスの思い出とキャロルの作品世界を交錯させて作られた愛の物語,素晴らしいファンタジー映画が,ギャビン・ミラー監督の『ドリームチャイルド』だった。(製作総指揮もしているデニス・ポッターの脚本が良かったっぜ!)
 布を動かして作られた幻想の暗い海。その海辺の岩の上に立ちはだかる幻想の怪物グリフォンと,巨大な海亀もどき。その二つの怪物の間に立つ少女アリス。その少女が急に老女に変わる。
 そんなオープニングで始まるこの映画は,少女アリスにひそかな思いをよせる,家庭教師のドジソン先生の愛と,そのドジソンの愛を「女」としての感性でとらえ,少女ながら,つかずはなれず,巧みな恋の駆けひきを展開して,ドジソンの深い愛をもてあそぶ「女」の残酷さを,人生を理解した老女アリスと対比していくことによって見事に描いていく。
 少女時代の過去を振り返ることによって老女アリスが,ドジソン先生の与えてくれた愛の大きさに気づき,そのことを大学での講演で発表するクライマックスは,見る者の胸にせまる感動の名場面だ。なぜならそこには「男」と「女」の性を越えた大きな愛があるからだ。
 しかしこの映画のテーマが,そうした愛を描こうとしただけではないことが,ラストシーンで解る。ラストシーン,再びオープニングの幻想の海辺が出てきて,少女アリスが二匹の怪物に問いかける。
「私はあなたたちにひどいことをしたのかしら?」「そんなことないよ」と怪物グリフォンが答え,視線を海辺の隅の方に送る。するとそこには,うずくまったドジソン先生がいて,ゆっくり立ち上がり,手でおおい隠した顔を現す。その顔はやさしく微笑んでおり,アリスに笑いかけるのだ。
 グリフォンが言う「全ては彼の妄想なのだから」と。男の少女への思いの大半が,男の勝手な思い込みにすぎないから,ドジソンの愛に答えなかったことに,そんなに責任を感じることはないよアリスちゃんということなのだ。ここでこの作品が,現実と幻想の二重構造にしてある意味が良く解る仕掛けだ。
 美しい少女,あるいは女性への男の思いは,このようにしばしば妄想で拡大される。ゆえに,これほど多くの少女を使ったファンタジー映画が生まれるのだろう。男は現実生活の中では女性を子孫繁栄のためや,SEXの快楽のため,生活を助けてくれる相棒としてや,その他,いろいろな理由のために女性を追いかけるのだが,その一方,頭の中では常に理想の夢の女性を求めてやまないようだ。
プレイボーイ誌のプレイメイト,ドロシー・ストラットン主演『ギャラクシーナ』という作品がある。オープニングのタイトルバックで『スターウォーズ』よろしく宇宙空間に文字が流れ,『スーパーマン』そっくりのスキャンを使ったギャラクシーナのタイトル文字が現れ,タイトルが消えると『2001年・宇宙の旅』のように宇宙船をカメラがなめ,宇宙船の船長が登場するシーンでは『2001年‥‥』のメインテーマ,リヒャルト・ストラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』が流れるという,ハチャメチャ・B級パロディ映画なのだが,この中に男の「夢の女性」の一つの形が描かれている。それはプレイメイト,ドロシー・ストラットンが演じる,最高級ロボット「ギャラクシーナ」だ。
 プレイボーイ誌,年間の最高の美女「80年度のプレイメイト・オブ・ザ・イヤー」にまで選ばれたドロシーの人間ばなれした美しさ(お人形さんみたい)が,美女ロボットという役柄にぴったりきまって,ギャラクシーナが永遠の美しさを持つロボットであるだけに,これはまさに男の理想の美女ということができるのだ。
 このロボット美女ギャラクシーナは初めのうちは,ギクシャクと動き,しゃべれば不気味な機械音が出るし,男がさわればバチバチと電気花火が飛ぶありさまだが,男に惚れられた時から,その期待に答えようと体温を調節したり,コンピューター頭脳に自分でプログラミングして,美しい女性の声でしゃべれるようになったりという,けなげな努力をくりかえし男の夢の女性になっていく。
 ギャラクシーナは自分に惚れてくれた男のために,辺境の星の人間料理を食うエイリアンがうようよいる危険なレストランに,単身乗り込んで男の求める謎の鉱石ブルースターを探し出してきたりと,男の仕事と愛のために無償の献身をしてくれる。そして最後には子供まで産める体になってくれるのだ。
 このようになにもかも男にとってつごう良く,しかも永遠に美しいギャラクシーナはまさに夢の女性であるのだが,これはまったくの男の妄想の産物で現実的でないことはあきらかだ。現実はもっと残酷なもので,男の夢の女性が永遠に存在しつづけることをゆるさない。
 夢の美女ギャラクシーナ,この素晴らしいギャラクシーナを演じたドロシー・ストラットンが射殺された。日本の新聞にも載っていた。プレイメイトが夫に射殺されたという記事がそうだった。そしてこの事件は後に映画化されることとなった。
 文豪アーネスト・ヘミングウェイの孫娘マリエル・ヘミングウェイが主演した,ボブ・フォッシー監督の『スター80』がそれである。マリエルがプレイメイト,ドロシー役を演じるために豊胸手術まで受けたということで,当時,話題になった映画だが,この作品に描かれるドロシーはギャラクシーナそのままに,心やさしい素敵な女性なのだった。
『スター80』を見た私は,エリック・ロバーツの演じるドロシーの夫に向かって(バカヤロウ!なんでこんな良い人を殺すんだ)と怒りながら家に帰り,すぐにビデオで『ギャラクシーナ』を見た。そこにはやはり美しいドロシーが生きていた。
 ドロシー・ストラットンは,あの永遠の美女「夢の女神ギャラクシーナ」となって,銀河宇宙の果てを,どこまでもブルースターを追い続けていた。現実には終わりがあり,夢の女性の存在をゆるさない。しかし男が『少女アリス』というものにいだく妄想は,時と国を越えて果てというものがない。それが絵画に,映画に,文学(オット,マンガも入れてくれ)に,夢の女性が描かれ続けるゆえんである。


↑不思議の国の豪ちゃん!?
←豪ちゃんのペンによるアリス!

第13回「アメリカン・シネマ・ナウ」1987年4月号 P34-35
 俺,ひさしぶりにアメリカの空気を吸ってきた。休養でハワイに六日,ロスでの四日は仕事がてらだったけどね。その間に四本の新作アメリカ映画を観ることができたので,その印象が新鮮なうちに,旅行中の交友記を織りまぜながら,それらの映画紹介をしたいと思う。
 まず最初は『リトルショップ・オブ・ホラー』だ。「ショウビズ・トゥデイ」で,半年以上も前から「アメリカ興業成績トップ10」のなかで紹介しているけれど,やはりすごい人気だった。
 あまり流行らない花屋で働く真面目な青年(リック・モラニス『ストーリー・オブ・ファイアー』のマネージャー役)が,ある夜謎の中国人からめずらしい花の鉢植えを買うのだが,これが実は吸血花で,青年の指から血を吸いながら際限無く成長し続け,挙句に青年の恋仇や店のオーナー,犬などを食べてしまう‥‥というブラックな軽いホラー・コメディだ。
 話のわりにグロにならないのは恐ろしい。“そいつ”がノコギリを持った狂人や死肉を喰う悪霊なんかではなく,人類に危害なんか絶対加えそうもない“花”であり,その「しゃべる花」の特撮が見事なことと,全体がミュージカル仕立てという明るさだと思う。狂言回しに出て来る黒人の三人娘なんてシュープリームスみたいで楽しいし,セリフはダジャレの連続で大いに笑わせ喜ばせてくれていたし‥‥(クヤシイけど俺には半分しかジョークが聞きとれなかったんだよね)
 それにしても,こういう話ってよくある。「軒下貸して母屋取られる」ってあれ。青年は自分の「血を削って」奉仕し続けるのに,サービスされる「花」の方は感謝するどころか「もっと食わせろ!腹へった!」と要求をエスカレートさせ続ける。俺には何だかアメリカの白人が黒人に対して対して抱いている潜在的恐怖感みたいに思えたけど,こんなこと言ったら怒られるだろうネ。
 次は『スター・トレック4』(以下S・Tと略する),これはものすごく楽しい娯楽作品だ。レオナード・ニモイの演出も『S・T3』ではひどかったけど,今度はいいぜ。I・L・Mの特撮も素晴らしく,ストーリーもスリリングだ。S・Tの隊員たちは,宇宙の危機を救うため,20世紀に絶滅した鯨がどうしても必要なので,現代のサンフランシスコに捕鯨しに来るという話だ。
 ここには『バック・トゥ・ザ・フューチャー』と同じヒット要因をみることができる。観客である我々は,S・Tの隊員たちが日常としている未来科学の進歩をすでに体験してしまっている。そこで彼等が接する二十世紀の人間たちが,ほんの小さな未来科学の知識に驚愕することに,ある種の優越感を覚えるし,反対に二十世紀に降りたったS・Tの隊員たちがその未発達のシステムに不便を感じることに対して,「あーあ,便利さに慣れちゃってるヤツはしょうがネェナー」などとヘンにわけ識り老人になってしまう。
 ところでアメリカで何故これほど『S・T』シリーズが受けるのか,はっきり言って不思議だった。それが今回アメリカの観客に混じってこの映画を観,彼等が大笑いするポイントを分析することで謎が解けたのだ。
 それは『S・T』シリーズのスーパースター,ミスター・スポックのアメリカにおける絶大な人気だ。ミスター・スポックこそがアメリカでの『S・T』シリーズの人気をささえているといえよう。このスポックを代表とするバルカン星人には喜怒哀楽というものが悪く,物事を「感じる」「推測する」ことができない。宇宙人スポックのメイクはあきらかに東洋人をカリカチュアしたと思える。アングロ・サクソン,ゲルマン,ラテン,スラブ系などの一般に白人を呼ばれる人間たちにとって,東洋人は常に「自分の考えや感情を表現しようとしない不気味な存在」という考えがぬぐえないのではないだろうか。もしかしたら東洋人はそういう感情すら持っていないと思っているのかもしれない。ミスター・スポックと艦長のやりとりでしきりに出てくる会話のテーマがその「感じる・感じない」で,アメリカ人が涙が出るほど大笑いする場面がいつもここなのだ。
「すみません艦長。私には事実を述べることはできても『感じる』とか『推測する』とか不確実なことを説明する方法はありません」と映画の最初のころ言っていたミスター・スポックが,映画の終わりには艦長の質問に対し,「はい。そう推測します」と答える。艦長は大喜びし,観客は笑いころげるまわる。そして,スポックは考えこむ。「私の言ったこと何かオカシかったでしょうか?」隊員が答える。「いや,艦長は喜んでたんだよ」ここで再び観客は涙まじりに大笑いする。
 人種が入りまじったアメリカという国ならではの差別ギャグといえようか。そこのところが分からない日本人にとってはミスター・スポックのそんな会話はちっともおかしくもなんともないし,『S・T』シリーズの魅力にはならないのだ。
 一年ほど前にジャック・ニコルスン主演の『男と女の名誉』という映画があった。アメリカでは大評判になり大ヒットした映画だが,日本ではさっぱりだった。それもそのはず,この映画も日本で見ては分からないブルックリンなまりのイタリアン・マフィアをこけにする差別ギャグの喜劇だったのだ。
 そうしたアメリカでの人種間の差別ギャグを逆手にとって,一躍人気スターに躍り出たのが黒人俳優エディ・マフィーだ。彼のギャグは白人が黒人を侮辱して言うセリフを黒人であるエディが言うおかしさだ。これは白人にとっては自分達が皮肉られているようでおかしいし,黒人にとってはふだん言いたくても言えないセリフをエディがかわりに言ってくれるわけだから,痛快で気分良いということなのだ。
 そのエディ・マフィーの新作『ゴールデン・チャイルド』は,ウェストウッドで『ゴースト・バスターズ』『ポルターガイスト2』の特撮監督ジョン・ブルーノさんにつれられて見に行った。その日は朝から一日中,ジョンさんの世話になっていたのだった。(ビデオショップや,SF専門書店や,おまけに家まで。ジョンさんサンキューでした)
 チベットの山奥に神の力を持った子供が生まれる。それがゴールデン・チャイルドだ。その子は,乱れた世界を治すために生まれたのだが,それを知った悪魔が邪魔をしようとゴールデン・チャイルドをさらってしまう。その神の子ゴールデン・チャイルドを探すために雇われるのがエディ・マフィーで,『インディ・ジョーンズ』のエディ・マフィー版みたいなストーリーが展開する。特撮いっぱい,スリルいっぱいの冒険がエディの連発するギャグとからまって快調だ。もちろん例の差別ギャグもいっぱいで,敵の白人に抱きついた黒人のエディが「お兄さん,僕が悪かった」「みなさん彼は僕の兄です」などと大声でわめいて敵や,周りの中の人達を煙にまく。その手のギャグにアメリカの観客が大喜びするのは,『スター・トレック4』と同じだ。
 ロスの友人の一人に音楽家のデビッド・ニューマンさんがいる。今,映画音楽で注目されている人だ。彼のお父さんはアカデミー音楽賞を四回も受賞したアルフレッド・ニューマンさん(マリブ・ビーチにある彼の家の玄関には,あのオスカー像がデンと置いてあった)で,歌手のランディー・ニューマンはいとこにあたる。
 そのデビッドが音楽を担当した『キンドレッド』というホラー映画の“制作者のための試写会”に招待された。ビバリーヒルズの住宅街にある「アメリカ作家組合専用」の試写会場だった。試写会場といっても日本劇場なみに大きく立派で,観客であるスタッフ達はタキシードやドレスなど正装が多かった。
 映画が始まり,クレジットが映し出されると一人一人の名前が出るたびに,その関係者たちが大歓声を上げる騒ぎだ。俺はもちろん音楽デビッド・ニューマンと出たところで大騒ぎをした。
 映画のストーリーは,遺伝子工学の学者である母親が死に,その家に移り住んだ青年と友人たちに怪物の魔の手がのびるというもの。その怪物とは,母親が生まれたばかりの主人公から遺伝子を抽出し,創り出した新生物で,エイリアンなみの不気味な怪物だ。
 映画の出来はマアマアだったが,怪物の手が伸びたり,俳優の臓器が飛びちったり,家が燃えたり,場面が変わるごとに叫び声が上がり「あれケニーがやったのよー」とか,「あの日は寒くて風邪ひいた」とか,「あの木の陰に人が隠れて動かしているんだよ」とか,スタッフたちの大声が劇場中から聞こえてくるので,まるで映画と観客が一体となったあの『ロッキー・ホラー・ショー』を観ているみたいに凄いエネルギーと興奮に満たされ楽しかった。スタッフのこの“ノリ”で送り出されるからこそハリウッド映画は力があるのだなーと思ったしだいだ。

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↑アメリカへ出かけた豪ちゃん

←豪ちゃんのペンによるスポック!

第14回「密室劇の天才 シドニー・ルメット」1987年5月号 P164-165
 その作風は地味だが,シドニー・ルメットは俺の尊敬する映画監督の一人である。最新作『モーニング・アフター』を観ることができたので,彼の作る作品の面白さについて考えてみたい。
 ルメットの映画監督としてのデビュー作『12人の怒れる男』を観た時の衝撃といったらスゴかった。なにがどうスゴかったかというと,物語の全体を通して出て来る画面のほどんどが陪審員室という“密室”であり,ドラマは登場人物達のディスカッションにより展開されるというその手法である。
 少年が殺人容疑で裁判にかけられる。いくつかの情況証拠が並べられるが,これといった確証はない。ヘンリー・フォンダをはじめとする十二人の男達が陪審員として一室に集められ,判決を委ねられる。少年は札つきの不良であり,情況は極めて不利で,「死刑だ!」という声がほとんどである。
 時は1950年代のアメリカ。戦争の混乱からやっと経済的に立ち直りをみせはじめたものの,当時の陪審員室にはエア・コンも,座り心地の良い椅子も,コーヒー・メイカーも無い。暗い照明,むし暑くよどんだ空気,カタカタと音をたてて回る扇風機。
 男達はその“密室”で,意見という名目の下にエゴを晒し,時には己れのフラストレーションをぶっつけるかのように,怒鳴り合う。その中でヘンリー・フォンダは,一つ二つと情況証拠を切り崩しながら,二人三人を「無罪」の同調者を増やし,最後まで頑なに「死刑!」を叫び続けていた男さえも,その心を開かせる事で,判決を無罪へと導いてゆく。「密室でのディスカッション」で一本の映画を作ってしまうシドニー・ルメットのち密な構成力と優れた演出力に,俺は体の芯から感動してしまった。
 そして,ここで注目したいのは,“社会”からはみ出し,カスのように扱われている容疑者の少年=“弱者”にルメットがあたたかい目差しを送っていると同時に,少年を閉め出した“社会”の側の人間にも立場の脆さ,心の弱さを認めている事だ。ルメットはこの作品で,「人間が人間を裁く事」への疑問を訴えかけている。
 陪審員室という“密室”で,登場人物達のセリフのやりとりで彼等の人柄,人生を浮き彫りにする事により,彼等の生きている社会,ひいてはアメリカという国家が抱えている問題にまで,そのスケールを広げながら行き着いてしまう。ルメットは“個”を描く事で“世界”を描くのだ。
 やはり限られた空間“密室”を舞台に作られたミステリー映画の傑作も,この監督の手で生み出されている。『オリエント急行殺人事件』は,アガサ・クリスティものの,数ある映画化のうちでもピカイチと常づね思っている。
 イスタンブール発,ロンドン行きの豪華列車の中で殺人事件が起き,ちょうど乗り合わせていた名探偵エルキュール・ポワロが事件解決に乗り出す。
 乗客は大金持ちの老嬢(往年の大美人女優ローレン・バコール),退役軍人(ボンド臭さのまったくないショーン・コネリー),少し頭の弱い田舎者(イングリッド・バーグマン)等々で,役柄といい俳優といい,ひと癖もふた癖もあるのだが,ルメットはそれぞれの役柄にリアリティを持たせつつ,すべての俳優達を,同じボルテージで見事に使い切っている。まったくこの監督は役者使いの天才だ。
 この作品ではアルバート・フィニーがポアロを演じているが,この役者が演技の上手さのお蔭で,ポアロにものすごくリアリティが出たし,この人の持つ清潔感のためだろうか,最後の温情ある結末にも説得力が出たと思う。ピーター・ユスチノフが演じていたら,もっと恩着せがましくなっていただろう。
 いくら豪華だからといって,出来ればあまり長く乗っていたくはないイスタンブール=ロンドン間の列車の旅も,ルメットの優れた演出力と,ち密な構成力によりエラク楽しいものになった。
 彼が作品でよく扱う題材に“権威”への反抗がある。デビュー作『12人の‥‥』の成功によりルメットは「ニューヨーク社会派」,「反体制派」と呼ばれる事となった。『評決』の司法界,『ネットラーク』のマスコミ界,『狼たちの午後』の金融界などの社会的規約に矛盾を感じた主人公達が苦悩し,挫折しながらも立ち上がり戦っていく姿は,「何からも包括されず,己れの価値観により生きる“個”で在り続けたい」と願うルメットの心の反映だろうか。
 しかし,こんな天才にも弱点があった。あまりに“個”と“密室性”にこだわったせいだろうか,無条件な明るさ,奔放な楽しさ,大きな空間的広がりが必要なファンタジー・ミュージカル『ウィズ』を,暗く地味な作品にしてしまった。
 だが,今度のジェーン・フォンダ主演による最新作『モーニング・アフター』は,とても出来の良い“密室”劇だった。
 酒を飲むと前後不覚になるアル中女アレックスは,ある朝目覚めると傍らに男の死体を発見する。昨夜何があったかが思い出せない。自分が犯人かも知れないという恐怖心が,彼女を証拠湮滅の行為に走らせる。しかし結局彼女は指名手配され,追われる事となる。
「昔女優だった」事だけが生き甲斐の頼りなげな主人公を,立っているだけで存在感のあるジェーン・フォンダが見事に演じている。プラチナ・ブロンドに染めた髪,厚化粧,ハスッ葉な振る舞いが,物語の最後で立ち直った時に見せる主人公の健気さを引き立たせる。このアレックスを立ち直らせたのは,自らも十年間アル中だった故に警察官の職を失った男,人生の落後者ターナーなのだ。
 この物語には「アレックスの部屋」,「殺されたいかがわしい写真家の家」,「謎の男ターナーの家」,「アレックスの夫の経営する美容院」の四つの“密室”が登場するが,それらの“点”を結ぶのは,「ターナーの運転する車」,「電話」,部屋の中で光る「TV番組」などの“線”である。そしてこれらの“線”も,登場人物に過去や人柄を語らせる重要な“密室”である。
 ところで実は俺と“密室”とは,切っても切れない深い仲である。漫画家は,仕事場という“密室”で生きるのが宿命のようである。そして今日も俺の“密室”では,無数の英雄達が,悪漢や怪物を相手にし凄まじい戦いを繰り広げ,飛び切りの美女達が,悩ましげに肢体をくねらせるのだ。


↑豪ちゃんの頭の中にも密室が。

←豪ちゃんのペンによるフォンダ父娘!

第15回「オーストラリアリズム」1987年6月号 P164-165
 先日劇場で,興味深い光景に遇った。本編がまさに始まろうとしていた時のこと,俺の前の座席で老紳士が突然体をブルブルふるわせ始めた。病気の後遺症だろうか,左の手の震えが止まらないらしく,それを抑えようとして添えた右手まで一緒に震え出,次には組んだ2本の足の間に左手を差し入れる努力までするが,その結果体の全体が激しく揺れることになってしまった。
 目の前で人がドタバタ暴れるのに気をとられ,映画の最初の5分をミスってしまったが,この老紳士は映画が面白くなってくるとピタリと震えが止まってしまった。面白い映画というやつは,こんな病気にまで効果てきめんということがわかって,うれしくなった。その面白い映画『クロコダイル・ダンディー』を見て,このごろ人気のオーストラリア映画について考えてみた。
 “ファンタジーなのにリアリティーがある”これが一連のオーストラリア映画に対して俺がずっと感心させられ続けてきた点だ。俺達観客が『クロコダイル・ダンディー』の話しにすぐ入り込め,登場人物達に好感を持ち,感情移入し易いのも,三苦・ダンディーという人物にリアリティーがあり,ラッセル・ボイド(『ピクニック・at・ハンギングロック』)のカメラがオーストラリアやニューヨークの景色をヘンに作らずありのままに捉えているからだと思う。
 ダンディーはアボリジニ(オーストラリアの原住民)に育てられ,大自然にあってはクロコダイルの息の根をナイフ一本で止めるほどたくましいが,野生の動植物を食べるより缶詰を選び,TVのルーシー・ショーやターザンを知っているほど文化人で,女性には礼儀正しい紳士であり,他民族やその習慣に敬意を払うほど誠実で,野生の動物に催眠術をかける神秘人である。この主人公のウソっぽい人物設定が,不思議とリアルに感じられてしまうからオーストラリア映画は面白い。
 なぜこのような人物をリアルに感じさせてしまうのかというと,人物の生理や,感情の動きに無理がないからだ。コメディーだからといって,大げさな演技をしないのが良い。それがオーストラリアの大自然の中でも,ニューヨークの雑踏の中でも,その時々にリアリティーをともなって,大きな魅力を発揮する。
 ヒロイン,スーに婚約者がいると知った時に,ダンディーはニューヨークの裏街に飲みに行くのだが,その悲しく苦しい気持ちがさり気なく自然に演じられていて印象的だった。演技というと,すぐに肩ひじ張って,目玉をむき歌舞伎してしまう,どこかの国の俳優さんはこういう自然の演技をもっと心がけてほしいものだ。
 オーストラリアの監督といえば,俺にもっとも強い印象を与えてくれたのがジョージ・ミラーという監督もまた,人間の感情(生理)を克明に描くことで物語にリアリティーを持たせることの上手な人だ。
 たとえば映画版『トワイライト・ゾーン』の第4話だ。飛行機恐怖症の男の話だが,飛行機という狭い空間,イライラさせる子供の声,自分の命を他人に委ねなければならないもどかしさ,機械で空を飛ぶことへの不信感,神経に突きささるような雷鳴,体中から吹き出す汗。恐怖の“生理”はとうとう男に「飛行機を破壊する悪魔の姿」を見させてしまう。
 彼の大ヒット作『マッド・マックス』のシリーズ全3作は俺の「ダ,ダ,大好きな」作品だ。
 風の舞うハイウェイに立つ主人公。愛する人を殺された怒り,弾丸を打ち込まれた足の痛みとその重さ。不毛の荒野で寒さに顔を引きつらせながらガソリンを巡って戦うサバイバル本能。自分を慕う無垢な心を無視できないやさしさ。人間の感情(生理)的な部分を,物語の全般にわたって丁寧に描いてくれるので,主人公から端役に至るまで登場人物達の心臓の鼓動や吐息の音までが聞こえてきそうで,そのファンタジックな設定にもかかわらず「こんなことも本当にあるんじゃないかしら」という気がしてくる。そのリアリティーが,ハリウッド活劇との違い(最近はハリウッドもその方向の活劇がふえているが)だと思う。
 クールなスーパー・ヒーローが主人公であり,極限に置かれた人間達の壮絶な戦いが物語のモチーフになっている点で,『マッド・マックス』はよく俺の『バイオレンス・ジャック』と比較され,最近は何と俺が真似したんじゃないかなんて言う無知な愚か者までいて俺は怒っている。俺が『バイオレンス・ジャック』を描き始めたのは,もう15年以上も前なんだい!(プンプン!)
 ところで俺は何とそのマッドマックス,メル・ギブソンと数年前に会って対談している。ビックリすることに,映画の中のハードな雰囲気とまったく違い,実際に見た彼は,背もそれ程高くなく,髪もブロンドに近い明るい色で,質問にも小声でゆっくり考えながら答える物静かでナイーブな好青年だった。一作目のプログラムに使われた俺のイラストをプレゼントしたらとても感激してくれた。
 以前『ピクニック・at・ハンギングロック』については書いたが,オーストラリア映画についてはピーター・ウェアー監督,この人の作品を抜きには語れない。彼の手に掛かると,どんな嘘も本当に思えてしまう。それは登場人物達が置かれている状況をあまりにも見事に分析し,ていねいに描出してくれるので,どんな人物設定もドラマも真実味を帯びてくる。
「スカルノ失脚」まで一年間のインドネシアの政変を事実に忠実にドキュメンタリータッチで描いた『危険な年』。文明社会から離れ,いまだに18世紀当時の暮らしをアメリカで続けているアーミッシュ達の生活を題材として成功した『刑事ジョン・ブック目撃者』。第一次世界大戦下のオーストラリアの国内と,オーストラリア軍の伝説のガリポリ戦線を舞台にした『誓い』。どの作品でも物語の縦糸となる状況をあまりにも克明に描いているので,そこに繰り広げられる男と女の愛,男と男の友情,偉人への絶対愛など,横糸の織り成すドラマにもリアリティーが出るのだ。
 つい最近ビデオで観たTVドラマ『プラマー』(水道配管工)も面白かった
 神経の繊細なある主婦の平和な日常が,「風呂場を修理する」若い配管工の出現で破られる。その男の言動に,主婦は彼が殺人者ではないかという疑いを持ち始め,意外な結末へと話は発展していく。この作品は,当人にとって好ましくない日常の些細な出来事(状況)の積み重ねが,どんな風に人間を精神的に追い詰めて行くかの過程をミステリータッチでスリリングに描いていた。


↑クロコダイル豪ちゃん!



←豪ちゃんのペンによる
   ダンディ&マックス。

第16回「戦争に行った夜」1987年7月号 P164-165
 映画『卒業』のテーマ・ソングで馴染みの深い往年のデュオ,サイモン&ガーファンクルの20数年前のアルバムに,衝撃的な一曲があった。それは,二人が,あの有名な賛美歌『きよしこの夜』を歌ったものだが,あくまでも聖らかな「きよしこの夜,星は光り‥‥」の声の裏に,「本日の,カンボジア国境付近の戦闘におけるアメリカ人の死者は72名,負傷者543名。敵の死者284名,捕虜62名‥‥」というラジオ・ニュースが流され続ける。それは人間の持つ二面性を象徴するかのように,平和な世界を称える声と,人間同士の殺し合いの結果を伝える冷酷な(ベトナム戦争の結果の報道)が重なるというものだ。実際に日本でも当時,このてのニュースは,FEN放送で毎日聴かれたものだった。
 特別試写会で観た,話題のベトナム戦争映画『プラトーン』の冒頭のシーンは俺にその曲を思い出させた。
 義侠心から志願兵となった若い主人公テイラー(チャーリー・シーン)は,熱風に砂塵の舞うベトナムの飛行場に降り立つ。戦地での第一歩で目撃したものは,自分と入れ代わりに輸送機で本国に送り返される死体の列であった。無造作に並べられた死体は,彼に死を意識させ,未だ見ぬ敵への恐怖心を抱かせる。
「ぎゃースゴイ!」とにかくスゴイ映画だぜ!おっと,結論を真っ先に言ってしまった。『プラトーン』は,この冒頭シーンが一旦始まってしまうと,息をする事すら許してくれないほど俺達をハラハラ,ドキドキ緊張させ続け,観終わった後に深い感動を残してくれる大戦争スペクタクル・ドラマだ。というよりも,俺達に「ベトナム戦争を体験させてくれる」映画,「二度と戦争に行きたくない」「戦争は起こしてはいけない」と固く心に誓わせる映画,「生きててよかった!」と感謝させてくれる映画と言ったほうが正確だろう。
 何故こんなにも俺達の心に迫るものがあるのだろう。それは,この映画が今までの戦争スペクタクル映画と大きく違う点で,物語はすべて主人公により語られ,場面には主人公がその場その場で見たもの,体験した事のみが描かれる,一人称の戦争映画であることだ。
 俺達は歩兵としての第一日目の夜,大雨に打たれながら敵を待ち伏せすることになる。「眠い,体が濡れて気持ちが悪い」。ジャングルに生息する蟻に首を噛まれ,ヒルに血を吸われ,隊員からは「馬鹿,役立たず,足手まとい」と罵声が飛ぶ。「何で俺はこんな所にいなきゃならないんだ」。木の蔭で何か動く気配がする。「敵だったらどうしよう。怖い。逃げ出したい」。突然暗闇にさく裂する火花,耳をつん裂くマシンガンや手榴弾の爆音,今までわめいていた仲間が,アッという間に血まみれの死体で横たわる。上官からの命令と弾の音が,頭の上を交差する。「敵の姿が見えない。誰と戦っているのか,何が善で何が悪かさえ,もう自分にはわからない。
 この映画には,客観的な場面がほとんどない。戦争へ至った理由やその是非,地図の上での戦地や,戦闘の規模などの説明は一切省かれている。敵と味方の爆撃をフカンでとらえたシーンもない。ただ,人間が直面する“戦闘”というものと,戦場という極限状態に置かれた人間達の友情,嫉妬,恐怖心などが,戦争を体験した一人の男の主観を通して描かれているだけで,べつに結論とかメッセージとかは明確にされてはいない。
 したがって,この映画のテーマは観る者にあずけられていると言える。この映画をどうとろうと観る側の自由なのだ。そこが,これまでのベトナム戦争映画『ディア・ハンター』『地獄の黙示録』と大いに違うところだろう。
 とにかく演出がうまい。ムダがまったくない。面白くて一瞬たりとも画面から目が離せない。題材が真面目であるのに,キャラクターの面白さや,戦闘シーンのアクションなどで,誰にでも楽しめる娯楽性の高い作品に仕上げてしまったオリバー・ストーンという人は監督として超一流だと思う。(ウ〜ム,まいったぜ)
 無情に殺りくを繰り返す“冷酷”なバーンズ軍曹(トム・ベレンジャー),人間の良心の象徴であるエリアス軍曹(ウィレム・デフォー),その二人の間で気持ちが揺れ動き,「まるで僕はこの二人の子供のような気がする」と言う主人公テーラーのキャラクターの設定と対比も面白く,演じるこの俳優達の演技力も感動ものだ。主人公役のチャーリー・シーンは『地獄の黙示録』のマーチン・シーンの三男ということだが,こんな大きい子供がいるなんて,「パパ」シーンは一体何歳なんだろう?
 ウィレム・デフォーの存在は,『ストリート・オブ・ファイアー』『 L.A.大捜査線〜狼たちの街』の頃から悪役として光っていた。しかしこの映画ではこのうえない善人を演じていて,それがとても成功している。かつてリチャード・ウィドマークが悪役から善人役に変わった時のような衝撃を受けた。
 さて試写が終わり,俺は映画で体験した戦争の衝撃と人間ドラマの感動に震えていた。すると何という事だろう,舞台にエリアス軍曹が登場したではないか!「アー,とかった!あんなスサマジイ戦場から無事に帰って来られたんだ!なんて生命力の強いヤツなんだろう!」。この特別試写会で挨拶するためだけに,わざわざアメリカから飛行機に乗り,成田から会場に直行し,翌朝の飛行機で帰国するというウィレム・デフォーの姿に,俺は思わず涙を流してしまった。
 その後のパーティーで俺がミーハーしたのはもちろんだ。彼は画面で見るよりずっとハンサムで礼儀正しく,俺が話しかけている間は,じっとことらの目を見,質問には丁寧に答え,気軽にサインに応じてくれて,その人柄に,ものすごく好感が持てた。そして握手したのだが,その手の力の強かったこと!パンフレットによると,撮影開始前に,出演者達は二週間の実地戦闘訓練を受けさせられたそうだが,バテバテになった仲間をしりめに,ウィレム・デフォーだけは一人嬉々としてやっていたそうだ。「うん,あいつなら本物のベトナム戦争からも無事に帰って来たに違いない」などと,ヘンに納得してしまった夜だった。


↑コンバット豪ちゃん!
セリフは「アメリカはベトナム戦争の
損を映画でとり返したのだった‥‥」。

←豪ちゃんのペンによるプラトーン。

第17回「ノスタルジ代」1987年8月号 P132-133
 人間てやつは,あるていどの年齢に達すると昔がなつかしくなるらしい。いつまでも若いつもりでいる俺とて,例外ではないようだ。高校時代の同級生である「どんがら座」の座長から,同窓会の誘いを受けた時,急に昔を思い出してなつかしうれしくなり,出席することにしてしまった。(「どんがら座」というのは俺の会社ダイナミック企画でやっている,ぬいぐるみ人形の児童向け劇団です)
 俺の通った学校は都立板橋高等学校という所で,東京オリンピックの三年前,昭和36年の入学である。そこは赤茶けた土ぼこりの舞うグランドと,今にもブッコワレそうな木造の校舎の学校だった。
 俺の頃は共学だったが,かつては女子校であったという伝統のせいか,おしとやかなお嬢さんタイプの女の子が多く,すぐにこの学校が気に入ってしまった。しかし恐ろしげな先輩も少しいた。二年上のまっ黒な顔のラグビー部の男が,よく先輩風をふかせて一年生の服装に文句をつけていた。俺も「ボタンがはずれてるぞ」と,どなられた。そいつは俳優・古谷一行になった。
 同じ学年のとなりのクラスに金曜イレブンの司会をやっている村野武範がいた。その他にも個性的なやつがたくさんいて俺のマンガのイメージモデル(たとえば『凄ノ王伝説』のモサ)になっている。
「ひそかに思っていた人が来るかもしれない」などと考えながら俺は同窓会に出かけて行った。そして二十数年の年月のもたらすギャップの大きさに驚いてしまった。だって,俺の後輩がはげてるんだぜ〜っ!(日本にもチェルノブイリ原発事故の影響があったのだろうか?)
 俺,高校時代は体操部に入っていたんだ。(当時,白土三平のマンガの影響で忍者になりたかったから)体操部の女の子は小さくて細い体を白鳥のように,平均台の上でしなやかに舞わせていた。そ,それが〜!? でっぷり太ったオバさんになってガハガハと大笑いしてるんだよ〜っ!(エ〜ン)
 そんなわけで,そういう体験をしたばかりの俺には,フランシス・F・コッポラ監督の『ペギー・スーの結婚』がとてもウソっぽく見えてしまった。
 18歳の女子高校生のウエストが何であんなにブヨブヨしてるんだっつーの!脇の下や腕に何であんなゼイ肉がついてるんだよっ!男も女も動きが何であんなに重いんだ!18歳って,もっとキラキラ輝いてるはずだぜ〜っ!
 この映画では,25年前にタイム・スリップしたはずなのに,主人公も,まわりの高校生達も,ちっとも見かけが若くならないし,精彩もなく,人生に疲れてしまっている。「胸キュン」の青春時代に戻って,「わけ識り老人」ばかりゴロゴロしてたら,第一気味悪いし,俺こんな昔なら帰りたくないよ〜っ!
 コッポラ監督は,何故もっと若い俳優達を使わなかったんだろう。キャサリン・ターナーがいくら演技が上手くても,本当に若くは見えないもんね。
 人間というものは,「若かった」昔と,「年をとってしまった」今と,見かけの若さ美しさ,身のこなしの軽やかさにギャップがあるからこそ“過去”というものに限りないノスタルジアを抱くものなんだ。誰でも自分のことを「昔は美しかった」と思っているものなんだ。ギャップが大きいからこそ“時”は残酷なんだ。「細い白鳥」が「でっぷり,ガハガハ‥‥」だから切ないんだ。(ウェ〜ン!)
 その点,この時間のギャップというものをきちんと演出して成功しているのが『バック・トゥ・ザ・フューチャー』だ。現在の場面では,生活に疲れて切っている母親も,30年昔の高校時代に戻ると,可愛いピチピチはつらつギャルで,未来の息子である主人公に猛烈なアタックをかけてくるし,タイム・マシーンを発明した博士も,バリバリの若手科学者で張り切ってるし,二人を取り巻くティーン・エイジャー達も,若者らしくエネルギーと好奇心にあふれ,元気でイキイキしている。(うん,こんな昔になら帰りたい)年寄りを若返りさせるより,若い俳優をメーキャップで老けさせる方が,無理がないしリアルなんだよね。
 この二作品のように「時」を越えるわけではないが,なつかしい「少年時代」の冒険を鮮やかに描いたのが,スティーブン・キング原作,ロブ・ライナー監督の『スタンド・バイ・ミー』だ。
 ナイーブで美しい子役ウィル・ウィートンのゴーディー少年が,あの恐怖の作家スティーブン・キングの子供時代とは最後まで信じられなかったけど,この作品が成功しているのも,『ペギー・スー‥‥』のように大人の目から見た「若者世界」ではなく,『バック・トゥ‥‥』と同じように少年の目から見た世界がしっかりと描かれているからだ。それゆえ観客も少年達の視点でこの作品を楽しむことができ,自分の少年時代とダブらせてノスタルジックな気分に浸ることができるのだろう。

↑ノスタルジック豪ちゃん!
←豪ちゃんのペンによるスタンド・バイ・ミー。

第18回「マイ・アニメモリー」1987年9月号 P164-165
 僕が生まれて初めて見たアニメーション映画は,「ディズニーランド」の王様ウォルト・ディズニーが製作した『バンビ』だった。昭和24,5年の頃,幼稚園で連れていってくれた。
 あいにくその日は雨。田舎町(石川県・輪島市)の古びた映画館の前で,他の園児達といやいや傘をさしながら並んだのを覚えている。
 テレビなんてモノはまだこの世になく(君達には想像もつかないだろうが,そういう時代もあったんだぜ),映画館さえも町に数軒だった当時,僕が体験してたのはモノクロの洋画(例えば,ジョニー・ワイズミューラーの『ターザン』など)ばかりだったので,「美しいカラーのマンガが動く」アニメというものを見たときの驚きは大変なものだった。やがて僕自身がアニメに関わるなどと,その時には夢にも思わず,ただただ無我夢中でスクリーンに見入っていた。
 そのおかげで『バンビ』の各シーンを,未だに鮮明に思い出すことができる(『バンビ』を見たのは,その時一回きりだよ)。
 二回目にアニメを見たのは,僕が東京に出てきてから(昭和27年・夏,小学校一年生の時)で,やはりディズニーもの(ミッキーマウスやグーフィーの短編)だった。その当時,本編の前に必ず「ニュース映画」(ヤーイ,見たことないだろう)というものが上映されたのだが,時々そのまたおまけにアニメの短編を何本かやってくれたりして,これがスゴイ楽しみだった。日本のモノクロ映画の前に,カラーのディズニー・アニメが入るということにはかなりのインパクトの強さがあって,僕の頭の中に,本編より印象に残ることも多かった。
 同じ頃,ニュースとアニメの短編だけを専門に上映する「ニュース映画館」なるものがあった。国電大塚駅の近くに住んでいた僕は,子供料金の十円玉を握りしめ,隣まちの池袋にある「ニュース文化」までトコトコ歩いて見に行ったものだ。小学校低学年の子供にとって,大塚から池袋までの距離といったら気が遠くなりそうで,迷子になる恐怖と戦いながらのアニメ見物だったのだ。まさか,今日のように「毎日,テレビでアニメが見られる」イイ時代が来るなんて予想もしてなかったヨ!
 日本初の劇場版・長編アニメ,『白蛇伝』(東映動画製作)が公開されたのは僕が中学一年の時だった。お金のなかった僕は,三歳年下の弟を「面白いアニメ映画につれていってあげるね」とやさしげに誘い出し,池袋の劇場まで歩いて着くと,「さーッ,連れてきてやったんだから,金はお前が出せよなッ」と弟の小遣いを巻き上げてしまった。(弟は未だに,この時のことを根に持っている)と,まぁ〜こんなにまでしてもアニメが見たかったわけなんだ。
 そんな僕がアニメに関わることになったのは,マンガ家になって数年目,あの『ハレンチ学園』の騒ぎ(と言っても知らないかナッ?)が,ようやく静まってきた頃だった。当時,講談社に「ぼくらマガジン」という雑誌があった。
『ハレンチ学園』が大ヒットしたおかげで,どの雑誌からもハレンチ風ギャグ・マンガの注文ばかりが殺到していた。「本当に書きたいのはSFストーリーなのに‥‥」と,ギャグの渦の中で魂が叫びつづけていたそんな時,「ぼくらマガジン」の編集長が,「思いきり好きなことをやりなさい」と言ってくれた。
 僕は張り切った。まず最初に「「大きいキャラを書きたい!」と思った。これはそれまでのギャグのちいさいいキャラばかりを書いてきた反動だったのだろう。「ゴジラのとうにデッカイ怪物を書こう!でもただの怪物では新しくないから悪魔にしよう,それもどうせなら巨大な悪魔の王にしようッ!」。そうしてできたのが『魔王ダンテ』だ。
「この悪魔のキャラをアニメにしましょう」と,東映動画のプロデューサーのM氏がやって来た。ただ「あまりに化け物すぎるので,もうすこしヒーローっぽく‥‥」ということだった。何度か書き直しを重ね,少しずつ人間らしくなっていった魔王は,やがて悪魔と人間の中間の生物となり『デビルマン』が誕生する。
 これが僕の最初のアニメ作品で,TVシリーズとして放送される事となった。
 それから15年たった今,ふたたび『デビルマン』のアニメに関わることになった。今回は,流行りのビデオアニメ版である。
 前回の『デビルマン』は,たくさんのTV的制約を考慮に入れて制作されたものだったが,今回は思いきり僕のマンガ作品にちかい(つまり残酷シーンもいっぱい,キャラもヒーローというよりは悪魔そのもの,もちろん飛鳥了もでてくる)アニメ『デビルマン』を作ろうと狙っての企画である。
 今までは,アニメ会社に「まかせっきり」がほとんどの僕だった。しかし今回はたっぷり関わらせてもらっている。ストーリー構成を書いたり,僕のイメージを伝えるために,コンテを切る監督と一緒に徹夜したり,作画監督にキャラクターデザインの手直しをしつこいくらいにお願いしたり。(僕のせい?それとも悪魔のたたり?作画監督の小松原さんは胃ようで入院してしまった。ゴメンナサイ)。
 さいわい大変に有能な“『デビルマン』ファン”の監督に出遇え,トップクラスのアニメスタッフに恵まれたおかげで,どうやら望みどうりの作品に仕上がりそうである。思えば雨の中を並んだ初めてのアニメ体験の日から40年ちかい年月をへて,とうとう自分らしいアニメができるのである。(ヨカッタ〜)(カッテクダサ〜イ)(ミテクダサ〜イ)(オネガイシマ〜ス)。

↑「今回はビデオのCMっぽいので
    『俺』でなく『僕』でーす」
←なんとミッキーがデビルマンに変身!

第19回「デビジェル・ハート」1987年10月号 P132-133
 図々しくも,先月号で宣伝してしまったビデオ・アニメ版『デビルマン』の制作発表会が先日あった。この日が来るまで,というより当日の午後3時にこの会が実際に始まるまで,すべてが「無事に運んでくれるかどうか」どんなに俺は心配し続けたことか‥‥!!
 なにしろ,このビデオ制作プロジェクトがスタートした時,スタッフ一同がまっ先に打ち合わせをしたのは,「“厄除け”にいつ行くか日取りを決める事」という,異常さだったのだ。俺が今まで“鬼”や“悪魔”を題材にする度にエレ〜ヒデ〜目に遭っているのを皆さん知っていたからなんだけど,発売元の講談社の重役さんをはじめ,アニメ会社の社員や監督さん,アニメーターさん達総勢30人と,上野・入谷にある『鬼子母神』というお寺を訪れ,お経を上げてもらい,手に手に「お守り」を握りしめてから一年経った。
 途中で「お守り」をなくした,作画監督の小松原さんが,胃かいようで手術をしたり(本当に大変でしたね),アニメーターさん達の部屋に怪奇現象が度々起こったりしたらしいけど,どうやらスタッフのみんなのガンバリと,お祓いのお蔭でこの日が迎えられ,作品の出来上がりにもスッカリ満足している俺は,「原作者冥利に尽きる」思いで会場を後にし,駐車場に向かったのでした。
 とと‥‥「どうしたんだ〜イエッ!?」。前の日に車検から戻ってきたばかりのウチの車から,ジャージャー水とクラッチ・オイルが漏れてるんだぜ〜!。車の会社に電話したら,「考えられないことです。ウ〜‥‥」と,うなっていた。(やっぱりタタッタのかな〜)。ウチの車はみじめにもレッカー車に引いていかれ,俺は気をとり直して監督さんと,ずーっと見のがしていたアラン・パーカーの監督作品「エンゼル・ハート」を観に行くことにした。
「こ,これはサタンだ〜っ!? 」,映画『エンゼル・ハート』を見ながら俺は心の中で叫んでいた。描き方も内容もまったく違うのに,偶然にもテーマそのものが,ついさっきまで俺が関わっていた『デビルマン』と同じ“堕天使”ではないか。
 しかも『デビルマン』のサタン「飛鳥了」と,ミッキー・ロークが演じるニューヨークの探偵ハリー・エンゼルこと“サタン”が,自分の記憶を失っているところまでそっくりなのだ。「何という偶然だろう!」
 この映画は「キリスト教ではない日本人には解りにくい」と,観る前に聞いていた。実際,まわりの観客の反応を見ると,どうも解らない人が多かったようなのだ。俺は別にキリスト教にくわしいわけではないが,『デビルマン』を書いていたおかげで,この作品の意図している事がとてもよく理解出来た。
 私立探偵ハリーは,ある日ルイ・サイファー(ロバート・デ・ニーロ)と名乗る紳士から,10年前に姿を消した,ある男性歌手を探すよう依頼を受ける。調査をすすめるうち,ハリーの身には,数々の凄惨な殺人事件がふりかかり,歌手の正体を突きとめる事で,彼はある「恐ろしい事実」に直面しなければならなくなる。
 映画の紹介でネタを割るのは好きではないが,この号が出る頃にはロードショーが終わっていると思うので書いてしまう。次々に起こる殺人事件は,ハリー自身が起こしているのであり,依頼人ルイ・サイファーこと,魔王ルシファー(“堕天使”サタンの別名)が,実在しない人物であることがラストで解る。ルイ・サイファーはハリーの心の中に住む人物,つまりはハリー自身の「罪の意識」なのである。したがってハリー自身が“堕天使”(ハリーの名がエンゼルであることの意味もこれでナットク)ルシファー・サタンであることがここで解るのだ。
 このことに気がつかなければ,この作品『エンゼル・ハート』が,全く解らなくなってしまう。これはキリスト教でいう“原罪”を描いた映画なのだ。
 キリスト教では,人はみな生まれながらにして罪人であるという。これは一体,何を表しているのだろう,なぜこのような教えがあるのだろうか?これは俺の勝手な解釈なのだが,もしかすると彼ら(白人達)の祖先は,事実,ぬぐいきれないような大きな罪を犯しているのではないだろるか?
 そしてその罪の意識が子々孫々まで,彼らの心の底に沈んで伝わっているとしたら,これほど怖いことはない。ノストラダムスの予言や,ヨハネの黙示録にあるような,世界を破滅に導く因子が,すでに彼らの中にあることになるからだ。映画の最後で,赤ん坊の目がルシファーのように光り,彼らの“原罪”が,人種を越えて伝わっていくことを表して映画は終わる。
 『ダウンタウン物語』以来,一作ごとに素晴らしい作品をものにしてきたアラン・パーカーが,ついに史上最高の恐怖映画を作り上げたのだ。

↑エンゼル豪ちゃん!

←「きらいだったミッキーロークが
 一ぺんに好きになってしまった。」

第20回「ファンタスティックランド」1987年11月号 P164-165
 一ヶ月おくれの夏休みで,タイ国に5日間行って来た。滞在中に,タイ国内航空機が落ちたニュースを新聞で読み(TVを受信出来ない地区にいたので),驚かされたけれど,気候も,人々も,とても気持ちが良く,久しぶりに楽しい旅となった。タイという国は俺に,何だかとても不思議な感覚を味あわせてくれる所だ。
 何が不思議かというと,「王宮」,「エメラルド寺院」,「暁の寺」,「黄金仏寺」などの建造物が,この世に現実にあるとはとても思えない,強烈な色と形をしていて,その外壁に埋め込まれた宝石や黄金などが,太陽の光を受けてキラキラと四方に輝き渡る様はまるで,蜃気楼を見るようなのだ。外から眺める華麗な景観も,中に入った時のおごそかな感動も,建物を取り囲む雑踏と喧噪も,ものすごく現実離れしてて,ファンタスティックで,しっかり『インディ・ジョーンズ』してて,俺は「まるでハリウッドのセットの中にいるみたい」な,ものスゴク嬉しい気分になり,別世界へと頭がトランスしてしまった。
 「暁の寺」の形なんか,発射台で待機するロケットみたいに見えるけど,一体どこからあんな形の発想が出て来たんだろう?もしかするとこの国は遠い昔に「異世界」と接触したことがあるのではないだろうか?なんてことを俺に感じさせてくれた。
 バンコクの街の中は,縦横に川が走り,人々の生活にとって重要な輸送路となっている。俺達はボートを一隻雇い,タイ版「隅田川下り」を楽しむことにした。
 一流ホテルや高層ビル,大寺院等が建ち並ぶメナム河岸を後にして,でっぷり太ったオバサンの操縦するボートは細い支流へと曲がった。と‥‥俺の目前にはスラム街が広がったではないか‥‥!
 ヌメヌメと黒光りするドブ川をはさんで,古い倉庫や船,拾い集めたありあわせの材木で作った家々が延々と建ち並び,人々は,ひる寝をしたり,お祈りをしたりしている。街の汚水が流れ込む側でも,子供達が元気に泳いでいる。(ウ〜ン。スゴイ生命力だな〜ッ)俺の頭は,昔の自分の作品『オモライくん』を思い出して,またしてもスッカリこの世界にトランスしてしまった。
 それにしてもタイ国の人々は,もの静かで穏やかだ。国王を愛し,仏教を深く信仰していて,(ボートやタクシーの中にも,どこの家にも,ちゃんと仏像が置かれているんだよ〜)たさしく誇り高い。スラムの子供達でさえ,物乞いをしたり,物をうるさく売り付けてきたりはしない。けなげで,一生懸命で,誠実だ。
 この国の人々の発散する生活エネルギーと,海辺の澄んだ空気,強烈な太陽のお蔭で,俺はたった5日間でものすごく元気になってしまった。徹夜明けだったから,往きはフラフラだったんだよね。
 で,元気な俺は,帰りの飛行機のフライト・ムービーを楽しむ事にした。
 時々この機内の映画でイイのに当たる事がある。『フレンチ・コネクション』『ロッキー』『キャバレー』なんかも飛行機の中で観た。ライザ・ミネリ主演の『キャバレー』の時は俺,七百円をケチしてヘッド・フォンを借りなかったんだけど(昔は有料だったんだぜ〜),何気なく観てたら,面白くって,とうとう最後までミュージカルを「字幕・音無し」で観てしまった。
 さて,今回は『フロム・ザ・ヒップ』というアメリカ映画だったのだが,前半はペーソスあふれるコメディ,後半はシリアスな法廷ドラマという,なかなか見応えのある秀作だった。
 野心満々の,駆け出し弁護士である主人公は,出世の糸口をつかむため,一計を案じる。あきらかに,有罪判決が下りることが必至の,あるくだらない事件の被告の弁護を引き受け,検事とグルになり,大芝居を演じ,話題になり,TVで法廷が中継され,あげくに無罪を勝ち取り,ウワッと人気弁護士になる。ここまでがコメディ。裁判所には不似合いな,下品なセリフのやり取りの妙が生きていて,とにかく笑わせる。
 そして後半,所属する事務所の先輩達から反感を持たれ,特に難しいケースを担当させられる。売春婦殺しの嫌疑をかけられた大学教授の弁護をするわけだが,殺しの物的証拠はあるものの,立証できず,被告が表面的には穏やかな人格に見えるため,主人公自身が「有罪か無罪か」の判断に迷い,弁護の方向を決めかねて悩むのだ。
 この被告役が,あの『エレファントマン』の名優ジョン・ハート。得体の知れないインテリの不気味さの演技が凄い。
 裁判は主人公の巧みな弁護によって,無罪の方向へと進むのだが,事件の真相は主人公にも,観客にも見えてこない。どうしても真実を知りたくなった主人公は,弁護士の資格を剥奪されることを覚悟して,検事を攻撃するふりをしながら,被告の性的コンプレックスを刺激する言葉を大声でしゃべりまくる。するとその時,穏やかな教授の顔が醜くゆがみ,殺人に使われた証拠品のハンマーを手に取り,主人公の背中めがけて叩きつける。それは温厚な大学教授の,紳士の仮面のはがれる瞬間であったのだ。
 弁護士であるのに事件の真相を引き出すためとはいえ,検事の役割を果たしてしまった主人公を,愛妻がやさしくいたわる。
 この映画がいつ頃日本に入るのかは知らないけれど,たいくつな飛行機の旅を面白いものに変えてくれた作品であった。

↑チンナラート豪ちゃん!

←タイのドブ川で泳ぐオモライくん

第21回「お祭り・ワッショイ!」1987年12月号 P164-165
 第二回「東京国際映画祭」がハデハデしく始まった。“よしっ”とばかり俺も開会式に参加した。だけど,オープニング映画の『竹取物語』は都合で見られなかったこの時期ってマンガ家は忙しいんだよね。それにこんなに一度にいろんな映画をやられたんじゃ,どれを選んだらいいのか迷ってしまうぜ。映画好きとしては,それぞれすべての作品が気になるところだ。なんとか時期を変えて別々にやれないものかな〜と思ってしまう。
 オープニング・パーティで出あった,小野耕世氏が,「日本では公開されないインド映画やなんか見るといいよ」と言ってくれたが,でもやっぱり俺の本命はこれ,「東京国際ファンタスティック映画祭」。
 「オカルト」「ホラー」「ファンタジー」「SF」など,まるで俺の好みにあわせて集められたような作品ばかりを紹介してくれるこの映画祭は,今回で嬉しくも第3回目となった。この映画祭の作品は毎日欠かさず見たいところだが,またしても俺は開会式にさえ出遅れてしまった。ANAホテルでの「‥‥映画祭」のオープニング・パーティにはなんとか行けて,そこで,りんたろう氏から「ファンタの開会パーティが盛り上がっていたよ」と聞いた。(ウ〜ム残念)。
 結局,俺がファンタに参加できたのはラストの一日と,閉会式だった。それでも会場に凝縮された,あの熱狂的な映画ファン達によってつくられる独特の熱気とパワーを浴び嬉しさで俺の体の血は煮えたぎり,野生が目覚め,あと一歩でモンスターへ変身してしまいそうだった。
 ファンタのラスト・デーに俺が観たのは,オーストラリア映画『キャプテン・ザ・ヒーロー』。スーパーマンをはじめとするアメ・コミのヒーローもののパロディなんだけど,アラン・アーキン扮する主人公キャプテンといい,クリストファー・リーが演じる暗黒の帝王ミスター・ミッドナイトといい,キャラクターやストーリーがとにかくカワイク,楽しみ作品だ。
「キャプテン・インヴィンシィブル」は,アメリカ合衆国が誇るスーパー・ヒーローである。アル・カポネの時代には,ギャングの手から善良な市民を守り,第一次世界大戦ではドイツ軍を叩きのめし,大恐慌時には人々に希望を与える。しかし,ある誤解を受け失脚し,その姿を人前から隠してしまう。そこでノサバリだすのが世界征服を画策する悪党のミスター・ミッドナイトで,キャプテンの失踪をいいことに,やりたいほうだい始めるのだった。結果的には,世をスネ,だらしないアル中に落ちぶれていたキャプテンは努力の末復活し,ミスター・ミッドナイトをやっつけ,世界の平和を取り戻す。
 アラン・アーキンのオトボケと,クリストファー・リーの渋い演技力,そしてフィリップ・モラ監督(『ハウリング2・3』)の小気味の良い演出とパロディー・センスでもって,とにかく全編通して目いっぱい笑わせてくれる。
 「ラッキーッ!」だったのは,この二人の歌が,聴けちゃうってこと。アラン・アーキンが甘い声を響かせて,かなしげに歌う「昔の悪人は見分けやすかった」という曲は泣かせるぜ。ドラキュラの名優・リー,さすがに人間をふるえ上がらせる吸血鬼の発声が出来てるためか,すごく奇麗に響くバリトンで,バックコーラス・ガールやダンサーを従えて歌ったり踊ったりすると,もうそれだけで「もうけっ!」の気がしてくる。
 観終わった後で,会場にいた俺のファンから「先生のパロディーのノリに似てますね〜」と言われたけど,ウンウン,フムフム,そう言われてみると俺の作品みたいだな〜。もう一度こういうパロディー・ギャグを書いてみようかな〜。
 この作品は,1982年にオーストラリア映画史上最高の製作費で作られたのに,ずっと陽の目を見なかったそうだ。(こ〜んなに面白いのにナゼだ?)。とにかくオススメ,星3ツの佳作です。
 さてお次は話題作『ロボコップ』。警察権力を握るコングロマリットの陰謀で殉職した警官マーフィーは,怖るべきハイパワーな,サイボーグ「ロボコップ」として蘇り,デトロイトの治安を守るため痛快無比の大活躍をする。しかし健気な彼を待ち受けていたのは,何と,彼を作ったコングロマリットの内部で出世争いに浮き身をやつす幹部達と,待遇に不満を抱くかつての同僚警官達の,エゴによる裏切りだった。ハデハデなアクションや,ロボットのメカ・デザインも興味深いけど,時々インサートされる,TVニュースとCFがやたらリアリティーがあって面白い。
「本日宇宙衛星からミサイル光線が謝って発射され,直撃を受けて元大統領二人を含む252人が死亡しました」なんてニュースとか,ある家族が世界戦争のシュミレーションをやってて,とうとう核兵器のボタンを押しちゃうオモチャ会社のコマーシャルとか,ウン,もしかしたらあり得るかナ〜と思えてしまう。
 この試写の当日,会場にゲストとしてエグゼクティブ・プロデューサーのジョン・デイビソンさんが来ていて,「この映画のアイデアは日本から取りました」と言っていたが,ロボットのデザインや機能をめぐる情報ばかりでなく,「正確無比な性能」「標的に向かって脇目もふらず突進していく一途さ」「忠誠心」など,ロボコップのキャラクターは日本人を頭において作ったんじゃないだろうか。この作品も,ストレートに楽しめる花マルのオススメです。
 俺はいつもこの映画祭で,「映画を心から愛する観客達と一緒に映画を観る幸せ」をかみしめる。ペチャクチャ,モグモグ,ガサガサと無神経な音ばかりたてて,ちっとも映画に集中しないヤツらに,ふだんはウンザリさせられているからだ。
 この映画祭に集まる観客達のように,盛り上がるところでは拍手を,制作者達が苦労しただろうところでは声援を,楽しい場面では大歓声を上げる「自分も映画の歴史に参加しているんだ」という意識が,これらの傑作を生み出していくのだと思う。以前,ロスアンジェルスで目撃したライター向け試写会での盛り上がりを書いたけど,ここの観客達の声援はね,あれよりホットで,デイビソンさんや,アボリアッツ映画祭会長のシュシャンさんなんかも,嬉しそうだったもんね〜。
 ヨシッ!俺もやるぞ〜。いまにスゴイ映画を作ってやるぞ〜。あの熱気あふれる映画ファン達から大歓声を送られる大傑作を作って,この「ファンタスティック映画祭」出品するぞ〜っ!なんてことを思いながら,渋谷を後にしたのだった。

↑豪ちゃんの筆によるロボコップ

↑おまつり豪ちゃん!
「最初,さっそうと登場するロボコップ だんだんボロボロのボロコップになってしまうのが,リアルだけどカナシイ。」

第22回「あれこれシアター」1988年1月号 P132-133
 映画の印象というものは,観た劇場の善し悪しでずいぶんと変わるものだ 。今までもコレという作品はなるべく設備と雰囲気の良い劇場を選んで観ることにしてきた。
 ハリウッドの三大劇場といわれる「チャイニーズ・シアター」「エジプシャン」「シネラマドーム」を初めて訪れた時は,その設備のスゴさ,豪華さに圧倒され,“映画劇場”というものに関してカルチャー・ショックを受けてしまった。
 入り口には彫刻やエンタシスの柱があり,従業員達がタキシード姿で客を出迎え,ロビーは広々とゆったりし,劇場の中も,オペラ・ハウスのような豪華さだ。音響の良さもスクーリンも日本とは桁違いなのだが,殊に「シネラマドーム」の巨大スクリーンはものスゴくて,『レイズ・ザ・タイタニック』の荒れる海のシーンを前の席で観た時には,本当に船酔いしてしまいそうで,あわてて後ろの席に移ったほどだった。
 そんな俺にとって,最近,東京の中心地に,粋を凝らした新しいタイプのムービー・シアターが次々と出来るのはとても嬉しい。有楽町界隈に登場した何軒かも「素晴らしい!」のひと言だが,ことに「丸の内ルーブル」なんか感動ものだ。この劇場で観たいがために俺は,大好きなジョージ・ミラー監督の『イーストウィックの魔女たち』の配給会社試写会をパスまでしたのだ。
 その「‥‥ルーブル」劇場だが,切符売り場の女の子は美人で(ワ〜イワイッ!),入口のホールはホテルのロビーみたいに広く(キャッホー!),椅子にはヘッド・レストが付いてるし(ワォ〜),天井の中央にある,黄金きらめく巨大なシャンデリアが超豪華なのだ(カッコイイ〜ッ!)。このシャンデリアは映画の始まる時に,テーマ・ミュージックと共に,七色に照明を変えながら天井に昇っていく。思わずシャンデリアに拍手してしまった。このくらい気分良くさせてくれたら,映画の出来が少しぐらい悪くても,楽しくなってしまうんじゃないかナ。
 もちろん『イースト‥‥』はとても楽しめる出来のよい作品だった。内容は当初期待した,悪魔と魔女の対決などとおおげさなものでなく,男と女の寓話といったところであるが,悪魔役のジャック・ニコルソンがいろいろな演技を存分に見せてくれるので,それだけでもう面白い。
 リンカーン・コンチネンタルに乗って,さっそうと小さな田舎町に乗り込むシーンでは,余裕に溢れた大金持ちのエレガントな紳士であり,三人の愛に飢えた女達を口説く段では,時にはひたすらヤ〜ラシイやりたがりの無邪気な中年男に,はたまた女の才能を引き出す優れものの芸術家にもなる。この三人を見事に手馴づけて共同生活を始めると「女の夢」の数々を叶えるためにあらゆる努力を惜しまない「頼れる」ハーレムの魔王になり,女達に捨てられると,それぞれの家の戸口で大雨に打たれながら花束を抱え,泣きながら復縁を乞う健気な純情を見せ,「悪魔の俺だって,ごく普通一般の男のように,シャツのアイロンかけをしてくれるようなやさしさを,求めているだけなのに‥‥」と男やもめ暮らしを嘆き,挙句に,「女に裏切られた悲しみ」から恐ろしい形相の本当の悪魔の姿に変わってしまう。
 これはもう,ジャック・ニコルソンの演技のヒット・パレードだッ!あらゆる設定で,どんな役柄(人間以外のモノまで)にもなり切り,そして似合ってしまうという彼の持ち味が生かされた,はまり役だ。ニコルソンは特に人間の狂気を演じさせると他の追随を許さない。スタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』なども,この人が演じたゆえに強烈な印象で俺の脳ミソに焼き付いている。演技の幅の広さ,強い個性,いつまでも観客の頭に強いイメージを残し続ける迫力のある役者って,この年齢だと他にはロバート・デ・ニーロくらいじゃないだろうか。
 ロバート・デ・ニーロといえば,彼がアル・カポネを演じている『アンタッチャブル』はシャンデリアでなくて,この人見たさに行ったのだった。この映画の監督ブライアン・デ・パルマは,俺の好きな監督の一人であったのだけれど,ここ数年は嫌いな監督となっていた。
 初期の『ファントム・オブ・パラダイス』『キャリー』では怪奇的な面白さを,そしてヒッチコックを目指した『愛のメモリー』『殺しのドレス』の頃は,サスペンス,ミステリーの演出に卓抜な才能を発揮して,俺をウナらせ感動させてくれた。それが,ナンシー・アレンと離婚した頃からオカシクなって,ストーリー構成のブッ壊れたヘンな作品ばかり作り出した。『スカーフェイス』『ボディダブル』には,人間の狂気ばかりが描かれ,監督のすさんだ感情ばかりが作品の表面にモロに出てしまって,俺はキライだった。
 そのデ・パルマも『アンタッチャブル』では,見事に復活してくれた。この映画では,登場人物の一人一人を,愛情を持って実にていねいに描いている。
 エリオット・ネス役のケビン・コスナーも,ワキを固める俳優達も演技がスゴイ。カポネ役を演じるロバート・デ・ニーロの,ジャック・ニコルソンとまたひと味違う覚めた「冷血の狂気」が良い。ショーン・コネリーは,あたたか味があり男臭いジミー・マローンの役柄を実にうまく見せてくれる。『007‥‥』のクールなスパイのイメージからの脱出をずっと図ってきたコネリーだが, この作品でボンドと180度違う人物を演じたことで,「脱ボンド」の演技は完成されたと思う。
 昔のTVシリーズのファンだった俺にとっても,この映画は大満足な出来だった。ただ,TVではカポネの跡目を継いだ親分フランク・ニティとエリオット・ネスとの戦いが何週にもわたって続き面白かったのだが,映画ではその二ティが単なる殺し屋で,あっさり死んでしまうのにはビックリした。映画の,白ずくめの変質的な殺し屋も,それはそれで面白いけれど,TVの二ティが悪党ながら,スケールが大きく,カッコ良かったのでなおさら気になった。事実は,どうだったのだろう?

↑豪ちゃんのペンによるジャック&ロバート

↑ぜいたく豪ちゃん!

第23回「ヒーロー考現学」1988年2月号 P172-173(最終回)
 はじめて『007』シリーズを観たのは、予備校を辞めマンガ家を目指し始めた19歳の時で、胃リーズ第二作目の『ロシアより愛をこめて(危機一発)』だった。「007は殺しの番号」というキャッチフレーズが一体何を意味するのかも、スパイという職業の実態も、何も知らずにただタイトルの面白さに惹かれて劇場に入った俺だったが、映画史上に初めて登場した“ヒーロー性をもったスパイ”の物語に、ムロンたちまち夢中になってしまった。
 日本のニンジャのように、政治の裏舞台の“影”の世界、ダーク・サイドに生きるジェームス・ボンドのキャラクターの要素が、演じるジョーン・コネリーの持つ不気味なダーク性とうまくマッチしてとにかく面白い。
 ロシアの殺し屋と、ハチャメチャに殺し合うんだけど、“スパイ同志の殺し合い”という設定は、このシリーズが初めてやったもの。「初めて」と言ったらもう一つ、ピストルに、照準計とか消音装置など、いろんなアタッチメントを取り付けたりする小道具の扱い方も新鮮だった。ルガーを「カチッ、カチッ」と組み立てて、頭上のヘリコプターを撃ち落すシーンなんて本当にビックリしたぜぇ〜。
 ショーン・コネリーのボンドは、“スパイ”というものに、“幻想”を抱かせてくれた。一流のマナーを身に付けたプレイボーイであり、マティーニやワインなど酒に関する知識も豊富で、ゼイ沢な女達と優雅に愛を交わしながらもそれに溺れず、飛行機や寝台車(オリエントエクスプレス)など豪華な乗り物で世界中を飛び回り、さまざまな武器を使いこなし、ダイビングや乗馬もこなすスポーツマンで、敵を殺す時には顔色ひとつ変えないクールさである。そこには男の抱く欲望がすべて盛り込まれているじゃないかッ!とにかくコネリーのボンドは“悪の魅力”そのもので、映画はすべて“大人の魅力”つまりカッコよさに溢れていた。
 アルバイトをしながらマンガをかくジミ〜な生活をしていた俺は、この新しいヒーローにあこがれた。当時はまだ、CIAやKGB、SISなんかの醜い実態が世に知られていなかったせいもあるけど、スパイに“男の夢”を重ねる事が素直に出来たのだ。コネリーのボンドも、この時代だから生きられたヒーローなのかもしれない。
 それが「明るいダイコン」ロジャー・ムーアが演じるようになってからの『007』は、ギャグ的な要素でもたせる、ショウ的な方向にいってしまった。ムーアのキャラの魅力の足らない分やたら派手なアクションや仕掛けなど、ジョーズなんかのコミカルなキャラで、みせていた。それ以前はグラマーだったボンド・ガールも、途端に胸ペチャになったしネ。ムーアのシリーズも、「スパイへの幻想」が消えてしまった「ひとつの時代のボンド」なんだろうけど‥‥。
 今度の『リビング・デイライツ』では、このどちらともまったく違うタイプのボンドが登場した。ティモシー・ダルトンのボンドは、純情で、真面目な好青年なのだ。
 新ボンドは、とにかくやさしい。それは「女への接し方」にすごくよく出ている。第一、敵片の女に恋しちゃうし、二人になった時には、まるでガラスの壊れ物を扱うように抱く。ラストシーンなんか、「こいつこのまま所帯持ってしまうんじゃないか」と思えてしまう。クールなプレイボーイ、コネリーが荒々しかったのと、好対照だ!“目”なんかも、すごく誠実そうなんだけど、それが危機に瀕した時に見せるスパイの残酷さを際立たせるコントラストとなっている。受けた司令に対し、盲目的にならないで、自分なりに頭を働かせながら誠実に任務を遂行していくダルトンのボンドは、「やさしい男がモテる」時代が生んだ、新しいヒーローなのかも知れない。
 さて、日本の小説界が久々に生み出したのが、今年の「SF大賞」にも選ばれた荒俣宏の傑作、『帝都物語』の悪のヒーロー“加藤保憲”だ。
 呪術によって東京を破壊するために生まれた“超人”という、類まれな設定のこのヒーローが、映画に登場するとなると見のがせない。発表されているスタッフ・キャストも魅力的だ。ただ一つの気がかりは、全十巻の小説をうまくまとめられるのだろうかという点で、「ダイジェストになったらこまるな〜」と、思いつつ、試写会場に駆けつけた。
 映画は見事なダイジェストだった。原昭和買うの四巻までをまとめたものだが、小説のほとんどの人物を登場させているので、どれも説明不足で、原作を読んでいないと、人物関係や、ストーリーがまったくわからない映画となっている。
 ただ“見事”と思ったのは、原作を読んで内容を理解している者には、面白く出来ているからだ。映像で見てみたいオイシイ部分が、力強い、迫力ある画面で迫り、SFXの出来もハリウッドに負けない。(この映画は原作を四巻まで読んでから見るように)
 ところで毎年一月に、フランスのアボリアッツで「国際ファンタスティック映画祭」が開催されているのだが、来年はなんと世界のスターや、有名監督にまじって、俺が(!?)審査員に選ばれてしまった。
 フランスでは、俺のアニメ作品『グレンダイザー』(フランスでのタイトルは『ゴルドラック』)が、大ヒットを続けていて、十年経つ今も繰り返しTV放送されている。日本の「ファンタスティック映画祭」のプロデューサー小松沢氏の協力と、アボリアッツ映画祭の会長である、リオネル・シュシャンさんの息子さんが『ゴルドラック』の熱心なファンであるということで、急に決まったのだ。
 この映画祭に、日本からは、『帝都物語』が出品される予定だという。世界のファンタスティック・ムービーと、どこまで競い健闘してくれるか、とても楽しみである。

↑豪ちゃんのペンによる嶋田久作&ティモシー

↑スパイ豪ちゃん!

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