マンガ街道一人旅
北國新聞エッセー
COMENTS 北國新聞(北國新聞社)に2007(H19)8月29日から掲載中の永井豪マンガ家生活のドキュメンタリー。当初第5水曜のみ掲載でしたが、2011(H23)よりほぼ月一掲載となっております。
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2007
2010
2011
2012
2013
2014

2015
2016
2017
2018
2019
2020
2021
1282021年
R3年
水曜
4
月14日(水)
1273
月17日(水)
コロナ禍の冬眠あけて 隠居するのは10年早い
春の生命力とシンクロするが如く、『バイオレンスジャック』のリメイク版『バイオレンスジャック20XX』の連載が始まった。マンガ家は衣谷遊さん。『アモン』で『デビルマン』の続編を描いてくれヒットした。続いてビックリするプロジェクトがスタートした。週刊「鉄の城マジンガーZ 巨大メタル・ギミックモデルをつくる」である。毎週買い続けると100号で巨大マジンガーZのフィギュアが完成する。週刊誌の概念を超えたそのボリュームに「ファンの人たちもきっと驚いてくれるに違いない」と思った。私も目下新作に取り組んでいる。ゴールデンウイークから週刊誌に連載予定だ。その他にも読み切りを描いている。コロナ禍の冬眠が、私の意欲に拍車をかけたようだ。
1262
月17日(水)
初詣で拝んだ不動明王 夢ではイケメンだったけど…
正月5日“初詣バスツアー”に参加した。成田山新勝寺・香取神社・鹿島神宮の三か所を巡る日帰りツアーだ。40人乗りの大型バスに乗客は10人。新勝寺のご本尊は不動明王で一度は行きたいと思っていた。私は酉年生まれで、その守護神である不動明王から『デビルマン』の主人公の名前をつけた。夢に一度だけ出てきてくれたが、新勝寺のイカツイご本尊よりはイケメンだった。日本三大兵法の源流の一つ「香取神道流」でも有名な香取神社で木刀を買い、「今年は時代劇を描くのも良いカモ」と思った。新しいチャンバラマンガのイメージで頭がいっぱいになっていった。
1251
月20

(水)
今年はどんな一年に? 生き延びて、楽しい作品を
コロナの猛威が吹き荒れる年末は30日まで仕事をして、横浜みなとみらいのホテルで過ごした。Go Toトラベルキャンペーン中止により100件以上のキャンセルがあり、ひっそりとしていた。訃報も多い一年だった。ゴルフ場のロッカーでお会いした時、いきなり両手を握られ『デビルマン』をやらせてくださいと懇願された東映の岡田裕介会長。夕張映画祭などで何度も映画談義をした映画監督の大林宣彦さん。マンガ家ではジョージ秋山さん、『8マン』の桑田次郎さん、『きまぐれオレンジロード』のまつもと泉さん、『釣りキチ三平』の矢口高雄さん、少女マンガの草分け花村えいこさん、『スペクトルマン』の一峰大二さん。生き残ったマンガ家の一人として、世の人々が楽しめる作品を描き続けたいと願うのだった。
1242020年
R2年
水曜
11回
12

23

(水)
「怪画」という挑戦 "不思議"を描くチャンス
「マンガ家になろうと思った理由は?」インタビューで何度も聞かれた質問だ。やはり手塚治虫先生の作品だろう。小説、映画、落語、そして格闘技観戦に夢中になりマンガのための知識を自然に身に付けていた。ほかに「マンガ創作に駆り立てるもの」があるとすれば、それは"好奇心"だろう。"不思議"なことが大好きで、UFOや霊を見たりしてきた。『ビッグコミック』誌から月一回見開きカラーイラストの依頼が来た。世界各国の神話や歴史上の事件がらみのファンタジーを使えば面白いと思い、『幻想怪画』とした。一回目は菅原道真、二回目は千夜一夜物語、三回目はギリシャ神話アルテミスの入浴シーンを題材とした。ストーリーマンガの制約の中では描けなかったイメージの広がりを、この“怪画”で披露していこうと思っている。
12311月18日(水) 手塚治虫の『ばるぼら』 作品のキャラは作者の心
 ビッグコミック担当編集Mさんから映画公開に合わせ『ばるぼら』を一回読み切りで依頼があった。「喜んで!」大好きな手塚先生の作品を描けるなんて、嬉しくて光栄だ。『ばるぼら』の主人公に、手塚先生の芸術に対する苦しみや孤独、葛藤が見えたのだ。大長編マンガ『バイオレンスジャック』が、石油ショックでページ数を減らされ、『黄金都市編』で連載中止に追い込まれ、あまりにガッカリしたときに『イヤハヤ南友』を生み出した。ジャックが私の心の中で小さくなって生まれたキャラなのだ。作品のキャラには作者の心情が反映される。「虫プロ」が倒産した時代に生まれたのが『どろろ』だ。『ばるぼら』を生んだ時の手塚先生は、大人向けのマンガを開拓しようと苦しかったのだと思った。私の『ばるぼら』を読んでくれた手塚眞さんから会食へのお誘いを頂いた。
12210月14日(水) 〆切があるって良いこと これからも"若者の心"で
「〆切さえ無ければ、こんなに楽しい仕事は無いのにネ〜!」盟友・石川賢君(故人)と幾度となく話し合った。50年以上続けてきたが、コロナ禍で開店休業、"〆切"が消えるという事態になった。「わ〜い!遊ぶしか無い!」。本とマンガを読み漁り、海外ドラマと映画を見まくった。が、次第に物足りなくなっていった。そんな折、「ヤングマガジン」誌から創刊40周年記念のマンガ依頼が来た。〆切だ!嬉しい!「やります!」と即答した。編集さんの希望に応えて"鬼"を、SF的でなく時代劇で描いてみよう。タイトルを『剣の鬼』とした。楽しくなって30ページの約束が47ページになり、描き直す提案をしたところ、ページ数の取れる号に掲載となり感謝した。本作を入稿した数日後、75歳の誕生日を迎え、後期高齢者保険証が届いた。だけど、いつも若い主人公に気持ちを一体化させるので、私の心はいつも若者なのだ。
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9
日(水)
軽井沢のマリオ一家 マジンガー好き高じて移住
 毎年、夏になると軽井沢に小旅行する。目的はゴルフだが、実は楽しみがもう一つ、親交を温めているイタリア人のマリオ一家がいるのだ。奥様は日本人で、7歳になるお嬢さんの3人に会うのが楽しみだ。出会いは2007年4月ナポリでで開催されたCOMICONで、4日間の会期中通訳とアテンドとして、朝から深夜までずっと私たちを全身全霊で護ってくれた。その一年後軽井沢に移住した連絡が入った。マリオはマジンガーZの熱烈なファンだ。子供の頃から夢中でになり、「将来は日本に住む!」と決めていたそうだ。夫婦は現在、旧軽井沢テニスコート通りでナポリ家庭料理のレンストラン『レオニダ』を営んでいる。本当に美味しくて不思議なほど飽きがこない。コロナが終息し、ゆっくりと軽井沢に行くことができる日を心待ちにしている。
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5
日(水)
穴だらけのスケジュール これが定年後の気持ちか!
「ビッグコミック」誌に6年間連載してきた『デビルマンサーガ』は、3月上旬で連載を終えた。新型コロナの増加に自粛要請が発せられ、海外渡航計画も数か国から届いていたご招待も消滅した。ニュージーランドの映画『ロード・オブ・ザ・リング』のロケ地、映画のために作られたホビット村へ訪れる計画だったがキャンセルした。スポーツジム、映画館、レストラン、温泉スパなど馴染みの施設は休業し、連載もヴァカンスも娯楽もなくなり、スケジュール帳が穴ぽこだらけになった。22歳のデビューから"何もしなくていい"時間と対峙したのは初めてだ。しかし私には経営している会社があり社員がいて、皆が私の出動をまっているからぼんやり過ごすわけにはいかない。毎日自宅で本や資料を読み込み、体を鍛え、奥さんと公園巡りしている。
1197

1

(水)
追悼・ジョージ秋山さん 「いつかオレ達が一番前に」
 デビュー2年ほど経った頃、「週刊少年マガジン」発刊10周年記念号の表紙の撮影のため、連載中のマンガ家19名が集合した。最前列中央には手塚治虫先生、両サイドに横山光輝先生と水木しげる先生、2列目にさいとう・たかを先生、ちばてつや先生、川崎のぼる先生、3列目に藤子不二雄の両先生と赤塚不二夫先生、私は4列目。後ろにいたマンガ家さんが私の耳元で囁いた。「いtか、オレ達が一番前の席に座るようになろうぜ!!」声の主はジョージ秋山さんで、顔の表情が野心満々だった。ジョージさんは2歳年上でデビューは私より1年早かった。プライベートなお付き合いは無かったが、時代を共有し、一緒に駆け抜けてきた感があり、訃報によく別な思いを抱いた。5日発売の「ビッグコミックオリジナル」に追悼画を依頼され『パットマンX』を描いた。ご冥福を心からお祈り申し上げます。
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月27日(水)
夢中になった手塚作品 滅亡もの"は平和あってこそ
 新型コロナウイルス感染により、世界はかつてない危機的状況に陥ってしまった。自粛要請により家籠りするに、私はもともと"苦"で無いどころか、むしろ好きな方かもしれない。小さいころから、外で遊び回るより、家の中で空想に耽り絵を描いて過ごすのが好きだった。私の人生に大きな影響を与えた手塚作品には世界が滅亡に瀕するものがあり私の好きなテーマだった。『来るべき世界』『メトロポリス』『ロック冒険記』『0マン』『大洪水時代』『世界を滅ぼす男』『地球大戦』夢中になった"滅亡もの"がやたらと思いだされる。手塚先生がご存命であったら、このコロナウイルス禍をどのように捉えただろう?私が描いた『デビルマン』『バイオレンスジャック』などの世界観は、平和な日常であってこそ娯楽として求められる。一刻も早く終息し、誰もが安心して暮らせる日常が戻ることを切に祈っている。
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月22日(水)
大人になったデビルマン 人類の未来に祈り込め
デビルマンサーガ』の連載が終了した。足掛け6年にわたる長期連載となった。編集長N氏から何度も『デビルマン』連載の依頼が寄せられていたが、子機を目前にしていた私に、27歳当時のようなエネルギーが出せるか自信が無かったからだ。「ハリウッド版ゴジラのように、オリジナル版とは違うデビルマンを描いてください!」という言葉に心が動かされた。『デビルマン』という作品は「戦争がエスカレートしていく先に、人類滅亡が起こりうる」というテーマにファンタジーの衣を着せて抽象的に描いたものだった。人間が悪魔と合体するということは、武器を持たされ戦場に放り出され人殺しを強いられることだ。『デビルマンサーガ』でもこのテーマは変えず、キャラやストーリー設定を変えての連載となった。この作品がデビルマン・ファンを納得させるものになったかどうかは私には分からない。しかし不穏な空気の流れるこの時勢にあって、人類滅亡が回避されるように祈りを込めた。
1163
月18日(水)
「キューティーハニー」が舞台に まるで女子高 ファン"萌え〜"
 1973年に発表して以来、TVアニメ3回、オリジナルビデオシリーズ1回、実写劇場用映画1回とたびたび映像化されてきた「キューティーハニー」が2回目の舞台になった。稽古を見に行き、総勢30人がすべて女性が歌いまくって、踊りまくって、圧倒される面白さになっていた。主演の上西恵さんはNMB48出身で、ほかにもさくら学院出身の佐藤日向さんなど、アイドルファンにとって"萌え〜!"のステージのようだ。公演2日目、池袋の「サンシャイン劇場」に奥さんを誘って見に行った。ピチピチのコスチュームでハチ切れそうな逆さが客席まで伝わってきた。一日2回公演で4日間。無事を祈りながら劇場を後にした。
1152
月12日(水)
ライガー選手が引退試合 「辞めないで〜」の声に感動
ライガー引退がとうとう現実化することになった。2020年1月4日と5日の東京ドームでラストマッチ。試合後に記者会見が開かれ、私も臨席することになり5日に招待された。ダイナミックプロダクションにやってきて「自分にライガーのマスクを被らせてください!」という山田恵一選手に「分かりました!」と応えてから31年もの日々が過ぎたのかと感慨深いものがあった。ライガー選手が登場すると「辞めないで〜!」の悲願の声があちこちから飛んできた。これほどまでにファンに愛される存在になっていたことに感動した。試合後の記者会見でライガー選手に花束を渡し、一緒にスピーチした。「山田選手が‥‥」と話し出すと、笑い声が上がった。戸惑う私を見てライガー選手が「もう良いだろう!? 山田です!」と言ってくれ会場がまた笑いに包まれた。
1141

8

(水)
映画に出演しました! アニメ具現化 感動ジワ〜
 令和元年5月9日、映画にカメオ出演してきました!!!映画のタイトルは「前田建設ファンタジー営業部」。マジンガーZがテーマになっているからです。富士山麓、青木ヶ原の樹海に建つ「光子力研究所」。汚水処理場が割れ地下の格納庫からマジンガーZが10秒でせり出してくる。「この建設工事を発注されたら、工費と工期はどのくらいかかるのだろう?」 ゼネコン「前田建設工業株式会社」は社内に「ファンタジー営業部」を作り、真剣に考えた。2003年(2005年の誤植)星雲賞ノンフィクション部門受賞され、「これはまさにSF小説だ!」と喜びました。撮影現場で英勉監督から説明を受け、高杉真宙さんと共演しました。撮影後、上地雄輔さん、六角精児さん、山田純大さんと歓談した。1月31日から全国ロードショー。ぜひご覧ください。
1132019年
H31年
R1年
水曜
10回
11月27日(水) 落語を楽しむ 日常忘れ、あたたかい気持ち
 私は落語が大好きだ。終戦から数年、子供のころからラジオ放送で落語に親しんでいた。歯切れの良さが持ち味の三遊亭金馬に六歳の私は夢中になり、兄弟たちと大笑いした。中学生になると桂文楽、三遊亭円生、古今亭志ん生など、名人たちのファンとなっていった。私がギャグマンガで大ヒットを生む出すことができたのは落語の蓄積があったからかもしれない。
 今年は幸運にも“落語を楽しむ年”となった。正月休みは高輪プリンスホテルで古今亭文菊と金原亭馬治師匠の落語を聴いた。7月は丸の内の東京会館で「柳家小三治、柳家三三親子会」へ出かけ人間国宝の味わい深い人情話を堪能した。そして10月「春風亭一之輔・七夜会」に産経新聞社から招待された。楽屋に訪ねるとにこやかに迎えてくれ、私の作品もたくさん読んでいてくれていて、「昨日は噺にデビルマンを登場させたんですよ」と言った。オリジナリティーに溢れ憑依型の天才だと感じた。
11210月23日(水) 永井GO展、上野の森へ 同業者の賞賛、やっぱり嬉しい
 去年の大阪、今年7月の金沢を経て東京・上野の森美術館で『画業50年"突破"記念永井GO展』が開催された。オープニング前日の9月13日に内覧会が行われた。「プレス」に続いて午後3時からは「特別内覧会」で招待状を送った出版各社、映画会社、玩具会社関係者ほか、藤子不二雄A先生、さいとう・たかお先生、ちばてつや先生、秋本治さん、福本伸行さん、ながやす巧さん、高田明美さん、空山基さん、バロン吉元さん、細野不二彦さん、かざま鋭二さん。“お世辞”であっても、同業者に言われると嬉しい!叶美香さんが圧倒的迫力の容姿で登場しご挨拶くださった。感謝!感謝!の一日だった。
1119
月18日(水)
金沢の永井GO展訪問 博物館で展示、感無量
 8月初旬、北陸新幹線「かがやき」のグランクラスに乗っての金沢は初体験。目的は石川県立歴史博物館での「画業50年“突破”記念永井GO展」を表敬訪問するためだ。マンガ作品の展示は歴史博物館初の試み。タイトルに“突破”を入れたのは、会場が押さえられず狙いより遅れたからだ。金沢では「マンガ家デビュー52周年」となる。マンガは幼少時から大好きな“趣味”だったが、“仕事”にしてからは厳しい試練の連続ではあった。当時は「マンガ家として潰されるかもしれない」という危機感を抱きながらも、「自分が楽しんで描かなければ読者も楽しめない」と言い聞かせていた。
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月14日(水)
シュバリエ勲章授与式 仏政府が認めてくれた
 7月上旬パリの「JAPAN EXPO 2019」に招待ゲストとして10年ぶりに参加した。毎年20数万人が世界中から集まり日本文化に触れる。サイン会では400人に記名とツーショット撮影し握手した。7月6日には芸術文化の功労者へ贈られるシュバリエ勲章が授与された。国会議員さんが登壇して私のジャケットの襟に勲章を刺してくれたが、ことは最初皮膚まで突き刺したのでビックリした。私の功績をフランス政府が認めてくれたことはとても嬉しい。だがそれ以上に、目の前のファンたちが大喜びしている姿を見られたことが嬉しかった。
1097
月10日(水)
輪島の記念館10周年 水木さんと「ゼ〜〜〜ット!」
 今年6月永井豪記念館が10周年を迎えた。2007年能登半島地震で計画延期からたった2年で発動に漕ぎつけたのは驚きだ。予算は当初の3分の1になったが、ランニングコストがかかりすぎず、却って良かったのでは?と確信している。6月14日羽田で水木一郎さんと一緒になった。のと里山空港に到着し、握手会のために発売される福袋100個にサインを入れた。壁に大きなマジンガーZを描き、水木さんと二人で激撮!エネルギッシュな13曲歌い、私とのトークショー、そしてファン100人と舞台で握手し、心に残るイベントだった。
1086

5
日(水)
平成最終の同期会 鉄棒で強くなった
中学校同期会幹事フジサキ君から案内状が届いた。私の鉄棒仲間で、中学時代の3年間ほぼ毎日放課後にぶら下がり技を競って遊んだ。私は小学校の卒業間近に父を亡くし「これからは強くならなければいけない!」と心に誓った。そのために選んだ手段が鉄棒で、2〜3か月もすると懸垂が30回も出来るようになった。高校時代は体操部でさらに鍛えまくり、この経験がキビシイ徹夜仕事に堪えられた理由だ。前回の同期会から十数名が亡くなっており、熟年離婚され一人暮らしをしている人もいた。
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1
日(水)
獣神サンダー・ライガーの引退 たった一人、30年活躍
スマホニュースで「ライガー引退」を見てビックリ!ライガーは私のTVアニメから生まれたマスクマンレスラーだ。略歴には「1989年4月永井豪宅生まれ」とある。1987年初夏アントニオ猪木さんからの依頼で、強い悪役マスクレスラー「ビッグバン・ベイダー」を出し、2年後「獣神ライガー」のアニメ化にヒーロー・マスクマンを作ることになった。手を挙げてくれたのはデビルマンファンの山田恵一選手だった。タイガーマスクは4代いるがライガーは一人で30年頑張ってきたのだ。感謝のディナーに誘い楽しい夜となった。
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月27日(水)
マンガ仲間の展覧会 日本が誇る本流の芸術
2月弥生美術館で開かれているバロン吉元さんの原画展に行ってきた。5歳年上で、大阪芸術大学の教授仲間だ。元気でオチャメで西部劇が好き。武蔵野美術大学西洋画科でしっかり槐蛾の基礎を学んでらっしゃるので、マンガ作品でもそのデッサンは魅力だった。知り合いの編集者から「バロンさんはペンを使わず、すでて筆で描いているよ」と聞かされ、私も筆で描く練習をしたことがあった。普段はペン描きだが、「これ!」という特別な場面には、私も筆を使うようにしている。
1052
月20日(水)
藤子不二雄A先生のこと 先入観の怖さ 知りました
年末に長崎ハウステンボスで奥さんの誕生祝いをし、正月を都内のホテルで過ごした後、グアムでゴルフを楽しみ、帰国翌日の初仕事はさいとうプロの新年会。例年あいさつをするA先生は11歳年上の84歳。私が石ノ森章太郎先生のチーフアシスタントだった52年前、先生にこんな質問をした。「藤子不二雄のお二人は、どんな風に合作しているんでしょうか?」「え〜〜〜!!!安孫子氏と藤本氏は絵柄がまったく違うから、作品見ればどっちが描いたかわかるだろ〜っ!!?」まるで魔法が解かれるように、お二人の作風の違いを悟った。思い込みとは恐ろしいもの。作品は共作と頭から決めてかかり、違いに気づかなかったことを恥じた。
1041
月16日(水)
マンガ家生活50年突破 常に迷いなく全力疾走!
マンガ家という仕事は人気商売で、作品に人気が無ければすぐに失業する。1967年11月にマンガ家として産声を上げてから、一度も途切れることなく続けてこられたことは、"マンガ家"を"天職"と思い、迷いなく持てるすべてを作品に投入してきたことが大きいと思う。 そんな私の50年間の足跡を辿る展覧会が昨年、大阪文化館・天保山で開かれた。手塚プロダクションスタッフの方々が企画協力してくださった。当初2017年の開催を目指していたのだが間に合わなかったことと、2019年に東京開催が決まっていたことから「50年突破」と付け足された。
1032018年
H30年
水曜
13回
11

28

(水)
デビュー50周年は催し多彩 世界に1台のデビルマン車
今年はデビュー50周年のイベントが多い年だった。連載2本を抱えていたので体力的に非常に厳しかったが、幸いなことというべきか、8年間続けてきた「激マン!」が終了となった。おかげで軽井沢と北海道でゴルフを楽しめた。8月には光武酒造場のプレス発表会が「SAKE HALL HIBIYA 銀座」で開かれ、イラスト描いてくれた和田卓也さん、松田りおんさんが来てくれた。そして9月6日73歳の私の誕生日には、光岡自動車が「デビルマンcrybaby」とコラボしたスポーツカー「デビルマンオロチ」(限定1台)の発表会が開催された。税込2千万円超のこの車に果たして申し込みがあるだろうか?心配していたが80人以上の応募があったと聞きホッとした。
10210

24

(水)
成功したロスの「アニメエキスポ」 熱い群衆 大笑いと大拍手
サイン会は映画『進撃の巨人』の樋口真嗣監督が隣で挨拶し席に着いた。75名限定が何故か100名以上に増えていた。熱烈なファンが多く、感激で泣き出す人が何人も出た。翌日は『キューティーハニー/ユニバース』上映会で、千人規模の大劇場は満席でホッとした。上映後舞台に上がると爆発的な感性が迎えてくれた。ファンセッションの後、ポニーキャニオンのブースで50名にサインをした。最終日も2回のサイン会をこなし閉会式へ。なんと20数名の黒服ボディーガードが!私を最も重要なゲストとして全員でエスコートする恒例行事だった!!
1019

19

(水)
米ロスで「キューティーハニー」上映 鋭い取材にノリノリで答え
7月初旬、23年ぶりにロスへ。「アニメエキスポ」からの招待で、新作アニメ「キューティーハニー・ユニバース」を上映し、トークショーやサイン会、マスコミ取材を受けた。通訳も十数人のジャーナリストも質が高く感服!代表レイモンド・チャンは台湾出身で、子供時代に見ていた「マジンガーZ」が忘れがたく、米国で日本アニメを紹介するイベントを開催したと語った。太鼓の後、1メートルくらいのハサミでテープカット。4日で40万人来場という、巨大なエネルギーが伝わってきた。
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15

(水)
祝・文部科学大臣賞 50年やり通して良かった!
『ハレンチ学園』がPTAや教育委員会の批判を浴び、雑誌の不買運動まで起こり、バッシングの嵐が吹き荒れた。帝国ホテルでの授賞式壇上で、文部科学省と「世間」の方々に認めてもらえたという"思い"が募った。「私の『ハレンチ学園』は騒動となりましたが、マンガの表現の自由や可能性を広げることに役立ったのかもしれない」と述べた。理事長ちばてつや先生、さいとう・たかを先生、松本零士先生、植田まさし先生、竹宮惠子先生、高千穂遥氏、一本木蛮さんから祝福を受けた。
997

11

(水)
輪島市民まつり 故郷で幸せ感いっぱい!
記念館イベントが市民まつり2018の一環として開催され、ビッグコミックの担当Nさんも同行することになった。昨年感動したフレンチレストラン『ラトリエ・ドゥ・ノト』で会食し、壁に大きなマジンガーZの絵を描いた。輪島市長から文部科学大臣賞受賞のお祝いの言葉!まつりの当日朝市通りでの朝食、キリコ会館、高洲太鼓、クラシックカーパレード、ジェット戦闘機のデモ飛行、篠井英介トークショー。そして私の出番となり、スピーチした。「永井豪○×クイズ」で勝ち残った5人にサイン入りマグカップを手渡した。
986

6

(水)
「キューティーハニー」発表会 叶姉妹がコスプレで応援
3月24日東京ビッグサイト「アニメジャパン2018」にてアニメ新番組『キューティーハニー ユ二バース』製作発表会が開催されることになった。ゴージャスタレント叶姉妹がゲストで応援に来てくれることになった。昨年末、私のスタジオに大型リムジンでお二人が降り立った。「アニメジャパンでキューティーハニーのコスプレをすることになりました」一体どんなだろう?と期待いっぱいでビッグサイトに入った。ハニーのこすプレをした美香さん、シスタージルに変身した恭子さんが現れた。いよいよ舞台挨拶となり、巨大な半束を渡してくれ、両側からキスのプレゼント!!私の笑顔は崩れっぱなしになっていた。
975

2

(水)
ギレルモ・デル・トロ監督 人懐こい笑顔と力強いハグ
映画の宣伝で来日中のギレルモ監督からの依頼で、1月30日夜、日比谷のホテルパーティに出席した。駆け寄ってきた監督は力強いハグをした。後ろから「ススムです」と声をかけてきたのは「空海」公開直前の染谷将太君。彼は実写版「デビルマン」で当時小学5年生でススム役だったのだ。奥さんとなった菊池凛子さんは「パシフィック・リム」のヒロイン。「シェイプ・オブ・ウォーター」のポスターに全員でサインしフォトセッション。別れ際にギレルモは、この後「デビルマン crybaby」10話一気に見るよ、と言いながら再びハグした。
963

28

(水)
ようやく日本で舞台挨拶 一緒に「ゼ〜ット!」絶叫
年末沖縄で英気を養って、新年早々「マジンガーZ/ INFINITY」封切りの舞台挨拶だ。やっと日本で公開される。技術の進化がロボットアクションを進化させていた。3DCGにより45年前に私の頭の中にあったイメージが実現していた。水木一郎さんが歌い続けてくれたお蔭で、マジンガーZの人気が継続したのだと思っている。満員の劇場のすべての人が一緒にテーマ曲を熱唱し、「ゼ〜ット!」と絶叫して、封切りイベントは終了した。
952

21

(水)
一日早くパリへ みんな笑顔で嬉しそう
ローマ映画祭の翌日、「マジンガーZ/ INFINITY」上映会のあるパリへ移動した。ホテル・ムーリス到着は25時!翌日約20社のインタビューがあり、ラストは有名な「ル・モンド」紙だった。その後3大三つ星シェフ、アラン・デュカスのレストラン「ダリ」でスタッフ13名とディナーを楽しんだ。翌日上映会場のシネコン「CINE CITI」は超満員でホッとした。上映後のファンミーティングでは、やはり「グレンダイザー」の映画化を望む声が多かった。
941

17日
(水)
劇場版マジンガーZ/INFINITY ローマ映画祭で大歓声
『アナザースカイ』収録二日目は、映画『スパルタカス』(1960年)の舞台コロッセオ。この映画に影響を受け、長編ストーリーマンガ『鬼―2889年の反乱―』を描いた。翌日からは映画の宣伝活動が始まった。インタビューは40社以上!そしてまるでアカデミー賞のような大騒ぎとなったレッドカーペットでは一番人気。上映会も超満員で大きな手応えを感じた。
932017年
(H29)
金曜
13回
12月15日(金)ローマの収録
容赦なく質問が飛んできた
10月「ローマ国際映画祭」での映画の宣伝活動に、TV番組『アナザースカイ』が撮影同行することになった。フィウミチーノ空港到着シーンから、翌日はボルゲーゼ美術館、2日目は老舗スタジオ「チネチッタ」からマイネッティ監督のオフィスでの再会、そしてカピトリーニ美術館とキビしいロケが続いた。
9211月17日(金)船旅の思い出
トラウマから解放された!?
私は旅が好きだ。机に向かい、ひたすらマンガを描くことから解放される感覚が嬉しい。数年前から船旅を楽しんでいるが、かつて踏み切れなかった理由が仕事以外にあった。それは返還前の沖縄へ1万tに満たない客船で大風に揺られ、土砂降りの甲板で嘔吐し続けたことであった。「飛鳥II」5万t、「ダイヤモンドプリンセス」12万tに乗りすっかり解放された。いつの日か、「にっぽん丸」の日本一周クルーズに参加し、故郷輪島の港に降り立ちたい。
9110月20日(金)故郷輪島へ飛ぶ
魅力が増えて嬉しい
アヌシーから帰国して2つのイベントが待っていた。渋谷タワーレコード「永井豪50EVE」で6月23日トークショーに出演した。大槻ケンヂさんと「怒髪天」増子直純さんがメンバーだ。控室から笑いが巻き起こり、300人の観客も大爆笑で大盛り上がりとなった。翌週輪島「永井豪記念館」でのイベントへ飛び、100個の限定フィギュアの箱にサインを書き入れた。イベント前日に輪島初のフレンチレストラン「ラトリエ・ドゥ・ノト」で食事をした。オーナーシェフ池端さんはロブションで修業をしたのだそうだ。
909月22日(金)モンブラン
山の面白さが蘇った
アヌシーでの『劇場版マジンガーZ』の宣伝活動は大成功をおさめ、あとの2日間の休日にリクエストしたのは、ゴルフと山歩き! アヌシー城付近のゴルフ場でプレイした翌日、モンブランに登ることになった。ゴンドラ2つとエレベーターで標高3842mの頂上へ!下山は途中から歩くことにしたのだが、予想をはるかに超えるハードなものだった。多少なりとも命の危機を感じる大冒険に、高校時代登山同好会を作った頃に感じた山の面白さが蘇った。→ニュースはこちら
898月25日(金)『劇場版マジンガーZ』
3分の映像で大成功!確信
「アヌシー国際アニメーション映画祭」2日目には個別インタビュー十数本!3日目にメイン劇場で『劇場版マジンガーZ』のスクリーニングが開催された。ロボットは3D、人物は2Dという画期的な試みが、より大きな迫力を生んでいる。本編を3分間に纏めた映像に人々が喜びの声を上げた。登壇してのトークショーも大盛り上がりだった。ギレルモ監督が絶賛してハグしてくれた映像が日本のニュースにも報道された。
887月28日(金)仏アヌシー映画祭
「ヒグマ」が満面の笑みでハグ
"Festival International du Film d'Animation d'Annecy"(アヌシー国際アニメーション映画祭)に出席することになった。羽田からヒースロー、そしてジュネーブ経由でアヌシーへ22時間の旅。翌日の対談で巨大なヒグマのような黒ひげの男が登場。「僕が子供の頃、どれほどマジンガーZの影響を受けたか知ってるかい?」「この作者は、いったいどんな人だろうかと、いつも考えてたよ」。「パシフィック・リム」を大ヒットさせたギレルモ・デル・トロ監督は思いのたけを語りながら、息が止まりそうな力で私をハグし続けた。
876月30日(金)手塚先生の忠告
マンガ家同士の結婚ダメ
「アトムは女の子のつもりで描いたんです」週刊少年ジャンプの「手塚賞 赤塚賞」授賞式で隣になった手塚先生から打ち明け話に驚きながらも納得がいった。本宮ひろ志の結婚式で手塚先生から、マンガ家同士の結婚式はダメ、豪ちゃんがダメになったらマンガ界の損失が大きい!と言われ、女性マンガ家と結婚する選択枝は消滅したのだった。
866月2日(金)手塚先生との出会い
常に未来みる姿勢学ぶ
「回想 私の手塚治虫」の著者・峯島正行氏は「漫画サンデー」初代編集長であり、それ以前「週刊小説」編集長時代に「混乱列島」でご一緒した。手塚マンガとの出会いは長兄・伸明のお土産であった。初めてお会い出来たのは、デビュー翌年春の「小学館漫画賞」のパーティー会場だった。“過去”の作品は振り返らない、常に“未来”の作品のことを考える、マンガ家としての姿勢を見た気がした。
855月5日(金)「鋼鉄ジーグ」映画
イタリアで大ヒット、日本上陸
イタリア映画「皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ」が5月20日に日本でロードショーが始まる。少年時代にジーグに夢中になったマイネッティ監督が、低予算にもかかわらずイタリアのアカデミー賞を7冠受賞した作品だ。先行ロードショーに来日した監督と舞台挨拶に立った。水木一郎さんがジーグカラーの花束を持って登場!監督は日本料理が大好きで、ひたすら刺身の大皿を堪能していた。
844月7日(金)「マジンガーZ」の作曲者
91歳の宙明さんをお祝い
3月4日渋谷区文化総合センターでの渡辺宙明さんのお誕生祝いコンサートに参加させていただいた。ゲストの「クレヨンしんちゃん」監督ムトウユージさんから特注の兜甲児ヘルメットをいただいた。コンサートの後、祝賀会が開かれ、マジンガーZの影響を受け、各界で活躍する人たちに出会えた。
833月10日(金)目の前で稀勢の里
座布団投げ もう止めよう!
今年の大相撲初場所14日目に、私は国技館の升席に居た。郷里出身の輪島や千代の富士が大好きな力士だ。千代天山へデビルマンの化粧まわしを描いた縁で、結婚式・断髪式にも招かれた。引退後営んでいる白浜のチャンコ屋へ行ってみたい。稀勢の里が勝ち、白鵬が負け、優勝が決まり座布団が空中を舞った!私の投げた座布団の行方は!?
822月10日(金)2017年の幕開け
デビュー50周年 頑張るぞ
新年をシンガポールでシャンパンで乾杯して迎えた。ユニバーサル・スタジオ、ガーデンズ・バイ・ザ・ベイ、ズーラシック・パークを楽しんだ。毎年1月末に開催するダイナミックグループの新年会では、450人の出席を頂いた。里中満智子さんから教授を辞めないよう念を押された。檀上挨拶で新作長編劇場用アニメ『マジンガーZ』製作決定の報告をすると会場から歓声が巻き起こった。
811月13日(金)アニソンコンサート
初めてオーケストラが演奏
2016年9月東京芸術劇場大ホールでの「永井豪アニソンコンサート」。コンダクターの和田一樹さん(35歳)が一番影響を受けた音楽は「デビルマンのテーマ曲」というアニメ育ちのアニソン好き。デビルマンカラーの燕尾服を特注!後日食事にご招待してクラシック音楽界の話が聞けて楽しいディナーになった。(記事中「豊島区立西巣鴨中学校」を「巣鴨区立」と誤植あり)
802016年
(H28)
木曜

月曜
11回
12月15日(木)イージー会
かけがえのないゴルフ
体に良いことを聞かれると「ヨガ、ジム通い、ウォーキング、そしてゴルフ」と答えている。50歳後半にさしかかった頃イージー会(良いジジイがイージーゴルフを楽しむ会)へ、つのだじろう先生に誘われ、今でもかけがえのないイベントなっている。「山口六平太」の高井研一郎さんに初参加で指南を受けた思いで、そして高井さんが作った有名な「イヤミ」は友人赤塚へ協力しただけと言って笑ったエピソード。
7911月10日(木)祭りが終わって
また映画を監督したい
10月1日の映画『CUTIE HONEY -TEARS-』初日舞台挨拶。映画完成の一抹の寂しさがこみ上げる。25年前のOVA監督3作品を思い出す。映画マジックの魔力に取りつかれた体験だった。色紙に西内ハニーを描き、輪島の「永井洋服店」オリジナルTシャツと一緒に手渡した。
7810月6日(木)映画の「発表会」
西内「ハニーちゃん」と対談
9月15日新宿バルト9で行われた、映画『CUTIE HONEY -TEARS-』発表会・完成記念試写会。出演者との挨拶、「共同通信」「FLASH」「The Page」「アニメイトタイムズ」のインタビュー。そして出演者の登壇、西内まりやの登場!舞台への階段の傍らでスタンバイまで。
779月1日(木)日本映画批評家大賞
水野さんの応援に感謝
マンガ約350作品、アニメ約50本を世に送り出し、2014年「東京アニメアワード功労賞」、さきの「黄金のROMICS賞」に続き、「第25回日本映画批評家大賞ダイヤモンド賞」を頂いた。創設者のひとり水野晴郎さんとは2006年「沖縄シネマ&ミュージックフェスタ」の舞台上でトークしたことがあり、応援してくれた。
767月28日(木)黄金のROMICS賞
国、時間、人種超えて
ROMICS最終日、イタリア文化大臣から最高賞を授与された。イタリアのアカデミー賞7部門受賞した「皆はこう呼んだ『鋼鉄ジーグ』」の主演俳優クラウディオ・サンタマリア,監督・脚本ガブリエーレ・マイネッティと握手を交わした。大臣から数年後にあるダンテ没後700年記念イベントへの招待を約束された!された。
756月23日(木)ローマでファンミーティング
「護られたい」に口笛
ROMICSでの手厚いボディーガード、インタビュー、ネットによる最新作もタイムラグなく知られていること、そして4日間で30万人の動員!「キューティーハニー」に護られたい理想の女性像を盛り込んだことに共感がえられ、会場に一体感が!
745月19日(木)イタリア「ROMICS」に招待
グレンダイザー、ローマ占領
4月6日から1週間、ローマでマンガイベントのメインゲストとして招待された。ローマ中のバスと電車にグレンダイザーがラッピングされ、地下鉄にはポスターが貼り巡らせ、PRキャッチは“ローマがGOLDRAKEに占領された!”(文中ではフランス語タイトル「GOLDORAK」と誤植)
734月14日(木)映画好きです
輪島で見たターザン原点
初めての映画体験は5歳の時父に連れられて見た『ターザン』!カラー映画はディズニー『バンビ』。7歳で上京してからは近所に3軒の映画館があり、日曜日には一日中遊んだ。今秋の「西内ハニー」が楽しみ。
723月21日(月)「アイアンZ」始動
連載抱え時間との闘い
ロボットの頭に乗り込むパイロットだから“兜”。20mも駆け上がるのだからオートバイで。最終兵器にふさわしい響きの“Z”。企画書は1時間で出来上がっっていた。年内のTV化に向けて、マンガ連載と敵ロボット20〜30体のデザインの依頼が!4つの週刊連載の中呆然とした。
712月8日(月)ロボットは過去の物か
最初からTVアニメ狙い
マンガではもうロボットははやらない!?TVアニメ「デビルマン」の次の企画としてどうだろう。持ちかけた東映の有賀企画部長から、すぐにTV化できそうとの興奮した返事!兄弟3人でアイデアを詰める企画会議を開く。
701月4日(月)TVアニメ大健闘
渋滞からロボット着想
「8時だョ!全員集合」の裏番組としては視聴率1%→10%をマーク!渋滞で止まっている車から足が生えて、前の車を跨いで進めたら…!?車のように操縦できるロボットだ!ヒューマノイド型アトム、リモコン型鉄人28号も違う新しいロボットが創れる!
692015年
(H27)
月曜
9回
11月23日(月)さらば ハレンチ学園
デビルマンに全力で挑戦
変身ヒーローものを大人にも説得力のあるものにするには?西洋の宗教・ホラーのイメージを盛り込み、獣人風にデザインし直し連載開始。ギャグマンガの倍以上の時間がかかるため、固い意志でついに「ハレンチ学園」を中止することに!
6810月12日(月)暗い時代だからこそ
大人が求めるダークヒーロー
予想外に「デビルマン」テレビ化が決まった!週刊誌連載が条件だが、これ以上増やせない状況から泣く泣く「オモライくん」を止めることに。筒井さんから「日本初のスカトロギャグマンガ」と評価されていただけに、編集部の反対があり編集長との直談判へ!
678月31日(月)少年週刊誌全5誌に連載
人跡未踏の記録 5週目で終了
ジャンプ「ハレンチ学園」(2部は3部の誤り)、チャンピオン「あばしり一家」マガジン「オモライくん」サンデー「あにまるケダマン」を4連載。キングの依頼に「スポコンくん」で1972年1月に週刊少年5誌制覇!!
667月20日(月)アニメ版「デビルマン」誕生
悪魔にパンツ穿かせて下さい
東映動画企画部長の有賀氏から悪魔を主人公にした作品をTVアニメに!ダンテの決着をつけたいと思っていたが、子供に受け入れられるだろうか?制作側のリスクエストに従っていくとどんどん悪魔から遠ざかって行った…。
656月1日(月)主人公暴走 編集者がテコ入れ
人を許せば 良いんだ!
連載初回で人気投票1位を獲得したものの、悪魔のエネルギーが吹き出し暴走し、作者のコントロールが効かなくなった!「人が許せなくなっていませんか?」と編集者の言葉で展開が見えた!ところが雑誌が休刊で失敗作となった!
644月27日(月)依頼は「1回100ページ」
「絶対無理」を引き受けた
石川賢が去ったダメージにより、週刊4本のギャグはつらく「キッカイ」を止めた。そんな時、ぼくマガ内田編集長から初回100pというストーリーマンガの依頼が!大きな絵でページが使える、悪魔のイメージを盛り込んだ怪獣作品として「魔王ダンテ」が誕生!。
633月23日(月)徹夜を繰り返しく
編集長の意図分かったが
〆切に追われていたある深夜2時、サンデーの渡辺編集長が酔った状態で、「幼な妻」の作家富島さんを仕事場へ連れてきた。過激な性描写をとの意図があったのだろうが、「まろ」は少女たちの可愛いエロチシズムを描いたものであって、相いれないものと感じた。
622月16日(月) ストーリーマンガに自信く
週刊誌が増えアップアップ
「鬼」は読者の反響も大きく高評価だった。すぐにぼくらマガジンに、学園闘争のエスカレートした教師と生徒の銃撃戦を激しいアクションで描く「ガクエン退屈男」を開始した!しかし70年夏、突如「日本一周の旅に出る」と石川君が辞めてしまい、続けることができなくなっていった。
611月5日(月)社会派劇画を描く
ヨミの甘さで大ピンチに
念願のストーリー・マンガ。人為的に作り出された被差別労働者“鬼”たちの物語だ。違いに対応できないため、野口さんに相談。ギャグの3倍の時間がかかり、発熱で倒れるも何とか記念すべき礎となる作品を描き上げた。
602014年
(H26)
火曜
10回
12月2日(火)初のSFものに燃える
ストーリー漫画に挑戦
本来は手塚先生のようなストーリーマンガを描きたくてマンガ家になったのに、といら立った。そこへ講談社宮原編集長から「キッカイくん」大人気のお礼として特別読み切り100pを用意された!これまでの自分のイメージからかけ離れたものにしたい、と燃えてSF劇画「鬼」を描いた。
5910月28日(火) 水島さんとサイン対決
ドカベンを「野球部に」
藤本さんから、平安時代の美の基準は髪の長さだった!と聞き、毛生え薬のエピソードが描けた。水島新司さんから柔道マンガ「ドカベン」が人気がとれず真剣に相談された。本当は野球を描きたいと打ち明けられ「途中からでも野球部に入れちゃえばどうですか!」と助言し大ヒットに!
589月9日(火) 「サンデー」に根負け
平安の色恋をギャグに
名誉会長を筒井さんが引き受けたことでファンクラブを承認し、いまだに活動を続けていて心の支えになっている。かつて赤塚先生の圧力で少年サンデーに描いた「マカロニキッド」は掲載されなかった。以降依頼を断り続けていたが半年通われ根負けし「まろ」をスタートしたが、SF作家眉村卓さんから親友の藤本義一さんが「まろ」のファンだと食事に招待してくれた。
578月5日(火) SF大会の熱気
「ファンクラブ作らせて」
SFの後のファンとの交流会にも参加して、女性のTシャツに筒井さんと前後に挟んでTシャツアートを完成させたり盛り上がった。その中にやたら目立つ竹川という男性ファンがいた。数日後ダイナミックプロを訪ねてきて「ファンクラブを作らせてください」といった。後の高千穂遥であった。
567月1日(火) SF作家と交流
奇想天外な作品に驚嘆
高校生の頃日本人のSF作家が次々と誕生した。中でも小松左京「日本アパッチ族」にビックリ!東京で開催された「TOKON5」に参加したところ、大騒ぎとなったが、豊田有恒さん、筒井康隆さんが飛んできて、しまいには小松左京さんを紹介してくれマンガ談義に花を咲かせた。
555月27日(火) DJの依頼
ラジオで黙ってお辞儀
すっかり時の人となり、少年マンガ以外の仕事も舞い込んだ。サンデー毎日に大阪万博から感じた「人類の進歩と不調和」というシニカルなマンガを描いた。またDJをやって欲しいという依頼もあり、その時の新人アナウンサーがみのもんたさんだった。DJの話は二度とこなかった。
544月22日(火) 映画化のオファー続々
イメージが違うが大ヒット
「ハレンチ学園」の映画化には数社のオファーがあった。日活は原作料として50万円を提示してきたが、製作費2000万円の1割で交渉成立!空前の大ヒットとなり収益は6億4千万円!第二弾も4億8千万円で、70年度の1位と3位のタイトルを獲得した。
533月18日(火) これって有名税?
作者たたきにウンザリ
さすがに「ハレンチ学園」バッシングだけでは記事が続かないようで、作者叩きにシフトしてきた。オカマバーに行く変態だった、などばかばかしい記事だが、平静で丁寧な対応を心掛けた。
522月11日(火) 「ハレンチ学園」のモデル
今ならセクハラだけど
マスコミ騒動は落ち着いてきたが、今度は学校やPTAから抗議が増え、長野編集長と兄泰宇が説明に回った。同級生だったFさんが先生になっていたことを知り、中一の時のFさんに抱きついたセクハラ先生こそが、モデルなんだよな〜と思い出された。
511月7日(火) 編集部からのクレーム
ヘソ曲げたが胸は隠す
十兵衛の水着が外れオッパイがチラリと覗くシーンに、編集部が隠すように要求してきた。何回も断ったが、教育評論家の阿部進さん(カバゴン)から優しく諭され修正した。この回は巻頭で小川ローザをまねて“スカートめくり”をさせたところ、全国の小学校で“モーレツごっこ”として大流行してしまった!
502013年
(H25)
月一回
火曜
12回
12月10日(火)子どもの支援が原動力
文化人も心強い味方に
たくさんのファンレターが届られ、「大人に負けないで」と励まされ、ワイドショーにメゲすに出演し続けるうちに、作家や落語家、精神科医など味方が増えてきた。だが「ヤングオーオー」では一般人として仕込まれていた和田アキ子が、TV局の指示で激しい暴言で批判した!
4911月12日(火)ワイドショーで糾弾
本番終わると握手攻め
取材に押しかけてくるマスコミ対応に連日追われ、ワイドショーにも逃げずに出演すると、「子供が悪影響を受けて犯罪者になる」と極端な発言を投げつけられた。ただ本番が終わると批判的だったオバさんたちから握手やサインを求められることもあった。
4810月8日(火)ダイナミックプロ設立
兄と弟 支えてくれた
依頼は断らない石森精神でどんどん仕事量が増えいき、人とお金の管理が手に負えなくなった。兄博(泰宇の誤植か?)・弟隆がマネージャーになり会社を設立。交渉の結果1p1500円だった原稿料は、なんと5000円に上がった!「ハレンチ学園」が朝日新聞に社会問題として取り上げられ大変なことに!
479月10日(火)不買運動、編集部の見解は
ビビらず、やっちまえ!!!
「ハレンチ学園」のせいで地方都市でジャンプの不買運動が起きた。少しでも子供たちに“性”を感じさせたらダメなのだというが、納得いかない。編集部はこれまで通り思いっきり描いてもらう!すぐ収まるさ!やっちまえ〜!!!という言葉を信じたのだが…。
468月13日(火)戦力増の仕事場に、ある日…
ハレンチ学園で不買運動!?
「彼は入れるよ」石川くんのアシ決定を言い渡した!前の仕事を辞めて4月からとなり、3月には同人雑誌「宝島」を作っていた小山田つとむ(18歳)が入ってきて、ワイワイガヤガヤ楽しい仕事場となった。一方加藤氏からジャンプ不買運動の知らせが!?
457月16日(火)「珍発明」はどうですか?
粘りに粘ったキッカイくん
「ハレンチ」の好調を見た週刊少年マガジンから発明モノの長期連載の依頼が。宮原さんはしきりに「珍発明」をタイトルに入れたがるが、アイディアが出なければ行き詰まる。何とか「キッカイくん」で説得してスタート!ホシくんが音を上げ、辞める代わりに連れてきたのが石川賢一(19歳)だった!
446月18日(火)16歳ホシ君がやってきた
蛭田チーフの怒声響く
少年ジャンプ読み切り3作の中で「「風天忍法帳」「ウスラセブン」を抑え「ハレンチ学園」がダントツ人気で連載決定!「少年ブック」読み切り連載、「なかよし」30pの依頼が!月産150pを超え、アシ経験3日のホシくん(16歳)がやってきた。ジャンプの担当が加藤さんに変わり、ヒゲゴジラが誕生!
435月21日(火)デビューから10ヵ月
依頼続々 大繁盛に悲鳴
「ハレンチ学園」を入稿した1968年7月、「ヤダモン」が終了。「ぼくら」に続けての連載をと加賀さん。怪獣の次は神様がどうだろうと、「アラーくん」が誕生!「電撃四郎イナズマ作戦」「ラ・サムライ」そして「週刊少女フレンド」(「ブラボー!先生」)と嬉しい悲鳴を上げたが、蛭田くんは本当の悲鳴を上げ始めた。
424月16日(火)編集長「格好が気持ち悪い」
そこが笑いのツボだ!
豪傑顔の先生がハカマ姿ではマトモすぎる、下半身をフンドシ、網タイツ、さらにハイヒール姿にすると蛭田くん大爆笑!これならイケル!と思ったものの、編集長から理解のないクレームが!
413月19日(火)「ハレンチ」にするには
保健室の天井裏に忍び込め
タイトルは「ハレンチ学園」に決まったもののアイディアも出てこないので、イキアタリバッタリでいくことにした。これまでのオシトヤカな女の子のイメージを破って、ヒロインをメチャ強い女の子にした。「八十八」は叔父の名前からいただいた。身体検査を覗くアイディアは蛭田くんの思い出から!
402月19日(火)変わったタイトルが欲しい!
「破廉恥」にピンときた
阿部氏から「ハリスの旋風」のような学園モノをと提案された。立ち読みして「要するに主人公が学校で暴れれば良いのだ!」と理解した。タイトルはインパクトのあるものをと言われ、新聞広告からエロ映画の煽り文句の「破廉恥」に弾けるような語感を感じた。
391月22日(火)強烈な編集者
学園モノをやろうよ!
集英社の角南攻氏の奇行!少年ジャンプ中野裕介副編集長を紹介され、4つの読み切りが決定!担当は人柄のよい阿部氏。石森アシ時代、13社が締め切りに押し寄せた時、最後になったが辛抱強く待っていた人だった。
382012年
(H24)
火曜

木曜
10回
12月11日(火)自分の「城」
もっと仕事が欲しい
COM「ふぁんらじいわらうどバン」に続いて、(おそらく)腹をくくった講談社宮原さんからの依頼で「荒野の剣マン」を5週連載と、徹夜の連続となり、実家から出て「あるぷす荘」の1LDKへ独立した!
3711月6日(火)アシスタント第1号
仕事と一緒に押し売り
デビュー後半年くらいして石森先生からお暇が出て専念できることに。壁村編集長がアシを押し売りに来て「馬子っこきん太」の連載を決めてしまった!小沢さとる先生のアシを2年していた蛭田充(20歳)だった。
3610月2日(火)王様と真っ向勝負
残酷、お色気を前面に
ギャグの第一人者から注目され自信が湧き、ダメと言われたことを全部描こう!そこにチャンスがある!TV時代劇「三匹の侍」のパロディ「三匹の剣マン」では、赤塚先生がどんな顔をして読むのかワクワクした。
358月28日(火)赤塚先生との対面の後で
「王様」を恐れさせたのか?
編集長は怒っていたが、不思議と冷静で腹も立たなかった。ギャグマンガ界のトップがなぜわざわざこんなことを?もしかしたら私のマンガは赤塚マンガを脅かすものなのか!
347月24日(火)赤塚先生に怒鳴られる
子供に悪影響を与える!
まんが王壁村耐三編集長と西新宿の「フジオプロ」へ!初対面でいきなり、「あんなマンガ、描いちゃダメじゃないか!!!」「じん太郎」を載せるなって編集部に説教してやったんだ!宮原副編集長豹変のワケが分かった。
336月19日(火)初の連載スタート
1週間で評価が一変
「じん太郎」の評価はよく連載継続をとの担当からの反応が、一転最終回のネームにかつてない手直しを要求された!一方でまんが王編集長から赤塚不二夫先生が会いたがっているとの連絡が!
325月15日(火)ついにメジャー誌へ
1ヵ月半で100p超の仕事
当時最大部数を誇る週刊少年マガジンからの連載オファー、担当は宮原照夫副編集長。すぐ胸にジーンときてしまう少年ヤクザを主人公にした「じん太郎三度笠」を思いついた!
314月10日(火)順風満帆のスタート
「ギャグの新人」と話題に
3作目「ちびっこ刑事ちゃん」は秋田書店まんが王増刊に!さらに別冊少年マガジンからの依頼に「夕陽の剣マン」を!一方野口先輩はウソをついて辞めたのにデビューせず、他所でアシをしていた‥‥。
303月8日(木)出版社のルール
喋れなかった「ゴロ助」
ヤダモンの強敵ネコにセリフがあってはダメ!講談社ルールに閉口‥‥。ポリスに掛けた「目明しポリ助」「目明しポリ吉」に変更されたが、ついにデビューを果たす!
292月2日(木)初の連載に挑む
破格の扱いにヤル気満々
「ヤダモン」の初回は24pで巻頭8pは2色!石森アシとして義理を果たしながらの新連載。主人公はそのままに「スイート」で生み出したヒゲゴジラを登場させた。
282011年
(H23)
4週毎
火曜
13回
12月28日(水)デビュー作は快調
好きなように描けばいいよ
デビュー予定作「目明しポリ助」はネーム下描き一発OKがもらえ、背景も野口先輩が2pアシしてくれた!TV「ヤダモン」は描く意欲が湧かないものであったが‥‥。
2711月30日(火)編集長の笑顔
ついに来た連載依頼
「ぼくら」の原稿落ちのピンチに「スイート」が掲載かっ!と思われたが実現せず。しかしTV「ちびっ子怪獣ヤダモン」のマンガ連載と読切りの依頼が!担当は清水憲三氏に。
2611月2日(火)野口さん、下宿する
3食賄い付きで大赤字
借金のためアパートを追い出される野口さんが転がり込んできた。「石川四ェ門」のネームは講談社に預かられ行方不明に!?
2510月5日(火)ゴーストライター
どうだ、丸々一本やるか
デビューに苦戦しているところ、石森先生から「トッポジージョ」の依頼が!先生のアイデアで恋人をネコから守るためマヨを自分に塗る展開として面白さが倍増!影のデビュー作!
249月7日(火)初めての原稿料
日の目を見るのはいつ
お金になった初の仕事は朝日ソノラマの絵本だった!「冒険ガボテン島」など。ヘルプアシ仕事で園田光慶氏の厳しい態度を見る。
238月10日(火)原稿を預けた
デビュー出来るかも
「スイート」の原稿を今度は講談社へ。そして次に「忍者・石川四ェ門」に着手するも、採用の連絡はなかなかない。
227月13日(火)売り込みに行く
ヒゲゴジラ誕生
映画「007」と海外TVドラマ「それゆけスマート」のパロディで「それゆけスイート」16pを3ヵ月かけて描き上げた(後に「ゴーゴースイート」に改題され30周年記念本に収録)。売り込みのため3ヵ月の休暇をもらい、少年サンデーには断られるも、助言からヒゲゴジラの原型が‥‥。
216月15日(火)自作を描き始める
将棋の駒のストレス解消
わずかな休日を使って自作「マーダー」16pを描き、ラスボスを石森先生として首を斬り飛ばした。「真夜中の戦士」の着手もこの頃。
205月18日(火)アシスタント予備軍
女流マンガ家から誘われた
その後のアシスタントの経緯と同人誌グループ「墨汁二滴」「宝島」、竹宮恵子とのかかわり。
194月20日(火)石森家に子犬が来て
ピリカは突然脱走した
アイヌ語で“美しい”という意味の「ピリカ」と名付けられた犬の世話をしていたチーフアシ豪ちゃん!辞めた後他のアシにいじめられ脱走‥‥!?
183月23日(火)ファンの見学
なぜ、僕が石森章太郎なの?
石森先生の命令でファンのサインは豪アシが!なんと市川団十郎の妹も見学に!
172月23日(火)密かな誓い
いつか、石森先生以上に
戻った野口先輩から苦手な背景の描き方が学べた。6月石森先生の自宅兼仕事場が桜台に新築され、引っ越し作業で昔の生原稿を目にして感激!
161月26日(火)密かな誓い
いつか、石森先生以上に
戻った野口先輩から苦手な背景の描き方が学べた。6月石森先生の自宅兼仕事場が新築され、引っ越し作業で昔の生原稿を目にして感激!
152010年
(H22)
第5水曜
4回
12月29日(火)先輩、戻ってみませんか
先生はしぶしぶOKした
初心者の女性アシが入ったものの、野口さんの復帰を石森先生に説得。
149月29日(火)スタッフは私ひとりに
そんな描き方では終わらない
アシ4ヵ月目で独りとなるが、そこで石森先生からスピーディな描き方の伝授が!?
136月30日(火)これがプロというものか
どうしてこんなにやるの?
弁天町のアパートで石森先生と同室での作業生活が始まった。月250pを越える膨大な仕事量に、先輩が一斉に辞める事態が!?
123月31日(火)アシスタント生活に入った
毎日来てくれないか
アシスタントのバラバラな状況に戸惑いつつ。当時のバイトは秋葉原のレンストラン(PM3〜8時)。
112009年
(H21)
第5水曜
4回
12月30日(火)石森先生に原稿をみせた
絵が固まってしまうかも
20歳となったばかりの10月に、神楽坂の喫茶店で石森先生と対面。すぐに電話がかかる。
109月30日(火)アシスタントはつらいよ
誰か、先生を紹介して下さい
アシスタントになろうと手塚先生を訪ね、留守のため後日運命の石森先生へ。
97月29日(火)デビュー夢見て
予備校やめ新作持ち込み
夏休みに予備校をやめ、少年サンデーへ短編持ち込み。さらに88pの長編「殺刃者」でもダメ。アシスタント経験が必要と悟る。
84月29日(火)「記念館」誕生
古里が元気になる一助に
4月25日記念館オープンイベントの前日に、三カ月だけの小学校同級生から呼びかけで同窓会開催。
72008年
(H20)
第5水曜
5回
12月31日(火)マンガ家への決心
「ガン宣告」に生きた証を
昭和39年の新潟大地震と一カ月続く下痢が決心させた!? その1年後に石森先生のもとへ。
610月29日(火)優等生やめた高校時代
知識、体力 みっちり培う
すでにマンガ家を目指し、勉強をやめ成績は5→45番へ。部活は体操部に。
57月30日(火)貸本マンガ
剣戟、ヌードに衝撃
俗悪のイメージがあった貸本での白土三平の洗礼!さいとう、水木、小島、平田氏も。
44月30日(火)マンガ界に姿勢続々
父が急死「自分が家守る」
トキワ荘の面々、アトム&28号、12歳での決意!
31月30日(火)東京での暮らし
本屋巡り 至福の日々
東京女子の洗礼、本屋での目当ては「ジャングル大帝」「ロックの冒険」「ぼくの孫悟空」。将来のマンガ家宣言も!
22007年
(H19)
第5水曜
2回
10月31日(火)故郷を離れて
失望を覆す溢れる本
4歳で手塚マンガに魅了され、東京への転居で持って行かせてもらえなかった傷心の豪少年7歳。
18月29日(火)輪島を訪ねて
蒔絵の品に初心思う
週刊パーゴルフの取材で輪島にてデビ沈金ボード&蒔絵お盆、ハニー蒔絵ボードを作製。
2007(H19)8月28日1面に告知「『水曜エッセー』永井豪さんが執筆陣に」あり。
話の肖像画
マンガ家・永井豪(74歳)

産経新聞 THE SANKEI NEWS
(1)仏から勲章を授与(2019.9.1)
 《7月5日、フランス政府から芸術文化勲章「シュバリエ」が授与された。1957年に創設された勲章で、日本人では歌舞伎俳優の市川海老蔵、映画監督の北野武、漫画家では松本零士、大友克洋らが受章している》

 叙勲について、事前に聞いていなかったんですよ。日本文化を紹介する欧州最大規模の「ジャパンエキスポ」が今年、20回目の開催だった。「節目だから来てほしい」と言われていて2008年以来、久々に行ったんです。取材会などがあり、次の会場へ移動する前にトイレに寄って出てきたとき、事務局の方に「勲章もらえることになりました」と告げられて…。どれほどすごいものか、理解していなかった。

 ジャパンエキスポの会場で、デビルマンやキューティーハニーなどの(その場で描く)ライブドローイングを終えたところで、勲章を着けてもらった。大使館などで授与されることが多いらしいけど、1千人収容の会場だったので熱狂してくれてね。事前にフランス語であいさつを教えてもらっていたので、その通りに話したら、またワ〜ッと大拍手。どうやら“フランス大好き”のようなことを言ったみたい。フランスで1978年から繰り返しテレビ放映された「ゴルドラック」(原作のアニメ「UFOロボ グレンダイザー」の現地での題名)のことを好きでよかった−とも思ってくれたよう。自分ひとりの勲章じゃない。アニメはみんなが力を合わせて作ってヒットにつながる。「グレンダイザー」は40年以上前の作品で、亡くなったスタッフもいるが、彼らにも喜んでもらえたらいいですね。

 《東京・上野公園内にある上野の森美術館で14日から「画業50年“突破”記念 永井GO展」が始まる(29日まで)。昨年の大阪、今夏の金沢に続く開催だ》

 目の前に迫る締め切りを一つ一つ片付けることだけでした。月並みだけど「もう50年たったのか」と。時間との戦いなので、いま見ると「デッサンが崩れているな」と思う絵もあるが、それも足跡。展示会ではいろんな状況で描いてきた作品を感じていただければ。生原稿のほかにもラフスケッチやプライベートで描いたイラストなど、これまで目に触れる機会のなかったものを出すことができた。マンガは時間経過を演出しなくてはいけないので、カメラワークのようにアップにしたり、ロングにしたりしている。一方でイラストは、1枚にどれだけ要素を詰め込むかが勝負。広い美術館でやるからと、大きな作品も新たに描いた。見応えあるはずです。

(2)夢から生まれた「手天童子」(2019.9.2)
 《男ばかりの5人兄弟の四男だ。父の仕事の都合で6歳で東京へ引っ越すまで、石川県輪島市で過ごした》

 4、5歳のころ、旧制四高(現金沢大学)で寮生活を送っていた長兄が夏休みなどで輪島に帰ってくるとき、赤本とよばれたマンガを買ってきてくれたんです。「メトロポリス」や「ファウスト」など手塚治虫さんの作品。分厚い「拳銃天使」を弟が、僕は地球編と宇宙編で2冊あった「ロストワールド」を選んだ。自分では読めないから、兄たちに読んでもらい、夢中になって聞いていた。絵本と違ってドラマがあって、登場人物が実際に生きているようで、新しい文化に触れた感覚でした。家では「少年画報」の前身である「冒険活劇文庫」をとっていて、「黄金バット」(永松健夫)や「地球SOS」(小松崎茂)が掲載されていた。「地球SOS」は攻めてくる宇宙人に、日本と米国が協力して戦うという絵物語。戦争が終わり、“米国は敵じゃない”ということだったんでしょうか。

 終戦の年の生まれなので、子供のときには戦争のことは何度となく聞かされた。手塚先生も戦争をテーマにした作品を多く描いている。“人間は戦争を繰り返す生き物。戦いをエスカレートさせれば、人類は滅びますよ”というテーマがあった。読者の心に残るものを描けば、作品としても長く残ると思います。

 《昭和24年に雑誌「おもしろブック」が創刊。山川惣治の「少年王者」など絵物語が主流で、マンガはその付録扱いだったが、徐々に立場は逆転していく》

 貸本向けで、さいとう・たかをさんの「台風五郎」シリーズは人気があったし、水木しげるさんの「地獄」は鬼が攻めてきて人間を串刺しにするような残酷さがあったが、ユーモラスな絵柄で面白く見ることができた。白土三平さんの「忍者武芸帳」などは中学に入ってから同級生に勧められたんだけど、殺戮(さつりく)シーンの迫力に衝撃を受けた。虐げられる農民の戦いが描かれていたのが新鮮でしたね。

 《3歳のときに見た夢をはっきりと覚えているという。その体験をヒントに51年、「手天童子(しゅてんどうじ)」(週刊少年マガジン)を発表した。鬼をモチーフにした壮大な冒険ファンタジーは後に、一大ジャンルとなる》

 天井のいくつかの節穴がバリンと割れて、巨大な毛むくじゃらの手がつかみかかろうとしてきた夢です。ショックで大泣きしましたよ。夢では平安時代の貴族のような住居にいました。

 「手天童子」を描き始めたら、またひんぱんに夢をみるようになりました。さらにアシスタントが体調不良になったことも。でも、恨みをもった人が鬼になる、人間こそ鬼の正体だ−というアイデアは夢にもらったものです。それを作品にすると、また夢をみる、の繰り返し。体力を使いました。

 マガジンでは45年に、読み切り100ページのSFマンガ「鬼−2889年の反乱−」を描きました。連載のギャグマンガ「キッカイくん」の評判がよかったので、同じ出版社(講談社)から「ごほうびにストーリーものを描いてもよい」と言われてね。このときも鬼にたたられたのか、高熱を出して大変だった。連載ものは落とさず(休載させず)、「鬼」を描け−という指示だったんだけど、体調がもどらず、「キッカイくん」を落としちゃった。これまでで唯一、締め切りに間に合いませんでした。

(3)早とちりの決心でマンガの道(2019.9.3)
 《小学6年生のときに、父の芳雄さんが病気のため亡くなる》

 子供の頃はひ弱だったが、父が亡くなってから、弱い人間じゃダメだと鍛えるようになった。それで中学のときは柔道部に入ったんですが、指導者が乱暴でね。よく畳にたたきつけられ、1年でやめてしまった。そのあとは放課後、グラウンドの鉄棒にぶら下がっていました。毎日やってると仲間も増えてきて2、3時間ぶら下がってましたよ。都立板橋高校に入学すると器械体操部に入り、副部長まで務めた。当時、大車輪くらいはできてましたね。

 《高校卒業時に文系学部の大学をいくつか受験するが失敗。予備校に通うも身が入らず、体調を崩す。それが転機になる》

 5人兄弟の長兄は働いていましたが、父の死去で家計に余裕がなくなり、5つ上、4つ上の兄は大学に行くことができなくなった。それでも兄たちからは「費用は面倒みてやるから、お前は大学に行け」と言われていた。勉強は好きじゃないけどなぁ、と思いながら何校か受けたが、やっぱり受からない。それで予備校に通うことになりました。

 当時は大塚(東京都豊島区)に住んでいて、早稲田(新宿区)にある予備校まで、約3キロを都電で通っていました。時々はランニングでね。高校時代、器械体操部だった余韻があったんでしょう。でも勉強はというと、予備校で使用する教科書はマンガの描き込みだらけ。どこまで授業が進行したかは、落書きのマンガで分かったのですが、中身はさっぱりで…。夏休み前かな、下痢が1カ月続いたことがあった。2番目の兄に相談すると、「同じ症状で亡くなった知り合いがいる、大腸がんだ」なんて言うんです。病院に行って検査を受けても、結果が分かるのは数日後。その間、「人間、いつ死ぬか分からない」ともんもんとしていました。そう考えたとき、「生きていた証拠を残して、自分がいなくなったあとも、いろんな人に思い出してもらいたい。駄作でも何でも、こんなやつがいたんだと思い出してもらえたら、それが自分の存在証明になる」と考え、生き残ったら好きなマンガをやろうと決心したんです。ところが検査の結果は腸カタルで、「1週間分の薬出しておきます」。2日くらいで治っちゃった。でも決心したからには、予備校をやめて、マンガを描くことにしました。

 《雑誌社に勤務する知り合いを頼りに、マンガ編集部に何度か作品を持ち込むようになる》

 16ページのものを持ち込んでも、まったく相手にしてくれない。それならと88ページという長編「殺刃者」を持っていくと、「これだけのものを持ってこられても連載できない」と言われて…。そのころデビューした人の絵が、自分より明らかに下手だった。どうしたらデビューできるか聞くと、「この人はアシスタントを何年もやっていて安心できるんだ」と言われた。「そういう実績がないとダメだということなら、誰か紹介してほしい」とお願いしたんです。誰がいいのかを聞かれたので、ファンだった手塚治虫先生に連絡を取ってもらいました。それで約束の日、虫プロに原稿を持っていったのですが、先生は大阪へ出張中。代わりに見てくれたアシスタント・チーフにほめてもらいましたが、先生に会えなかったショックは大きかったですね。

(4)激務のアシスタント時代(2019.9.4)
 《昭和40年、レストランでボーイのアルバイトをしながらマンガを描き、デビューの機会をうかがっていた。編集者の紹介で手塚治虫と会う約束を取り付けるも、本人不在で会えなかった》

 手塚先生に会えず、がっかりして帰宅すると、弟の同級生が遊びに来ていた。その同級生は日頃から石森(のちの石ノ森)章太郎先生にマンガを見てもらっているとのことで、「一緒に行かないか」と誘われました。実はその前夜、夢を見ていたんです。(手塚の)虫プロに行くと、大きな庭にある小屋の中から、なぜか石森先生が「こっちへおいで」と手招きしているという夢でした。その場面を思い出して後日、石森先生に会いに行きました。和服を着た石森先生は落語家のようで、見ていただいた絵をほめてもらったことが自信になりました。

 《石森のアシスタントが作業する仕事場に足を運ぶうち、「手伝ってくれないか?」と誘われるようになる。前任のアシスタントがやめ、人手が足りなかったのだ》

 レストランでのアルバイトをやめて、アシスタントになりました。給料は減りましたが、マンガの勉強をできることが楽しかった。ただ、忙しかったですね。石森先生は多くの連載を抱えているから、原稿ができるのはいつも締め切りギリギリになる。8畳ほどの部屋にいる先生と4人のアシスタントを、多いときで13人の編集者が囲んでいた。締め切り間際の殺気が刺さってくるようでした。

 先生は手が速いから、ポンポンと畳の上に原稿を投げ出す。それをアシスタントが拾って、背景などを描いていくんです。編集者は一刻も早く、自分のところの原稿を持ち帰りたいから、ヨソの連載原稿を取ると、「それはウチのじゃない」とでもいうようににらまれる。もう針のむしろ状態ですよ。編集者はふだんでも4、5人が待ち構えていて、午前中から食事も取らず、日付が変わるくらいまで描いていましたね。月に1度休めればいいほうで、労働基準法なんて関係なしでした。

 アシスタントを始めて3カ月くらいのとき、私以外のアシスタント3人が反乱を起こしたんです。「こんなひどいところはない、やめる」と。私は待遇に不満はなく、「ここで勉強したい」と拒否して残りました。翌日、先生が来てまわりを見渡し、「他の連中はどうした」と聞くので、やめたことを伝えると、顔色一つ変えずに、「いらない机をかたづけろ」と指示されました。自分ひとりでも描けるという自信があったのでしょう。次のアシスタントが来るまで1カ月半くらい、向かい合って過ごしました。先生のもとには2年ほどいました。

 《42年に「目明しポリ吉」(講談社「ぼくら」)でデビューする。江戸一番の岡っ引きになることを夢見る少年が主人公のギャグマンガだ》

 もともとギャグには興味なかった。当初はアシスタントをしながら、描きためたストーリーマンガを出版社に持ち込もうと思っていたのですが、半年で4、5ページ描くのがやっと。でもギャグマンガならページ数は少ないうえ、背景も楽で簡単。石森先生もストーリーものとギャグでは、仕上げるまでの時間が明らかに違っていた。ギャグマンガは簡単でいいなあと思って、描きはじめました。

(5)自分のギャグに大笑い(2019.9.5)
 《石森(のちの石ノ森)章太郎のアシスタントを卒業した昭和42年、おとぼけ捕物帳の「目明しポリ吉」(講談社「ぼくら」)でデビュー。銭形平次のような岡っ引きになることを目指す少年ポリ吉の日常を描いた作品だった。同社の「別冊少年マガジン」でも、西部劇パロディーの時代物「夕日の剣マン」を描いた。いずれも読み切りマンガだった》

 ギャグのアイデアは次々に浮かびます。尽きることはないですね。テレビがない時代、ラジオで聞いていた落語の蓄積があったためか、困ることはなかった。子供の頃、分かりやすかったのが三代目の三遊亭金馬(さんゆうてい・きんば)です。学年が上がるにつれて、八代目の桂文楽、古今亭志ん生(ここんてい・しんしょう)の徐々に崩れていく面白さも分かってきた。三遊亭圓生(えんしょう)の人情話は、笑いがなくても迫力があった。いろんな落語家を聞きまくっていたのが、役に立ったのかもしれないです。

 ギャグマンガはどれも、先のストーリーは考えていません。行き当たりばったりで、思いつくまま描いているんです。キャラクターを作りあげたら、それを転がしていくだけ。実は笑いを取ろうとか、笑いを作りだそうとは思っていないんです。自分が面白いと思って描いている。思い浮かんだギャグにゲラゲラ笑って、夜中とか夜明けに、笑いが止まらなくなったことが何度もあります。子供や登場人物になりきって、「こいつらバカだなあ」と思っていると、笑いが抑えられない。

 《翌43年には、戦国時代を舞台に、親を亡くしてもたくましく生きる少年を描いた「馬子っこきん太」(秋田書店「まんが王」)の連載が始まった》

 マンガ家は編集者の依頼があって成り立つ仕事です。子供雑誌からの依頼では読者の年齢層を考え、毎日どんな生活をしているのか、シミュレーションするわけです。親にたたき起こされて学校に行って、と思いめぐらせると、「勉強イヤだなあ」「いたずらしてやろう」という気持ちが出てくる。自分が思いついたことを、登場人物にやらせればいいわけです。

 《同年、少年ジャンプ(集英社)で「ハレンチ学園」の連載が始まった。ヒゲゴジラ、丸ゴシといった破天荒な教師たちと、山岸八十八(やそはち)と柳生十兵衛みつ子が率いる同級生たちが騒動を引き起こすコメディーだ。「ハレンチ学園」はのちのち、大人を巻き込んだ社会現象になった》

 「馬子っこきん太」などを描いていて、時代劇ギャグマンガ家の印象がつき始めた。そんなときジャンプの担当者が「現代物をやろう、学園ものはどうか?」と声をかけてくれたんです。どんなタイトルがいいか思案していたとき、新聞に掲載されていた映画の題名に「破廉恥」という文字があった。カタカナにしてみたら面白くなり、それで題名が「ハレンチ学園」になった。ヌードを描いちゃいけないとは思っていなかった。白土三平先生が貸本向けに描いた「忍者武芸帳」を中学生の頃によく読んでいてね。忍者の歴史的な戦いを描いているんだけど、それにはヌードも残酷なシーンも出てくる。「貸本向けはOKで、メジャー誌がダメ」という線引きがあるとは思っていなかったんです。自分では青春マンガを描いているつもりが、騒ぎになって…。ジャンプの不買運動が起きました。

(6)冷たい視線に負けないぞ(2019.9.6)
 《昭和43年に連載がスタートした「ハレンチ学園」では、ヒゲゴジラや丸ゴシら教師が、子供たちをいじめるような授業を行っていた。山岸八十八(やそはち)と美少女の柳生十兵衛みつ子ら生徒が、教師や教育委員会に抵抗していく》

 当時、オンエアされていた小川ローザのテレビCM「Oh! モーレツ」をまねて、作中でスカートめくりをさせたところ、全国の小学校で大流行した。スカートめくりの場面を描いたのは、一回きりなんですけどね。一部の新聞が取り上げてから、テレビのワイドショーがおもしろがって話が大きくなった。全国のテレビ番組に呼ばれましたよ。自分の意見を説明しようとするのですが、反論する間もなく攻撃されて痛めつけられ、番組ではつるしあげ状態になる。でもね、番組が終わると、ぼくを攻撃していたPTAのおばさま方が、「サインして」と寄ってくる。当時23歳で、「ジジイが描いていると思ったら、かわいい坊やじゃない」といった具合です。その裏表の激しさに余計、人間不信になりましたよ。

 《終戦から3週間後の20年9月6日に生まれた。きょう74歳に。「ハレンチ学園」を批判する世代とは、意識のズレを感じる》

 子供が見て悪いものは、描いてはいないというモラルはあった。性への関心や興味は小学生くらいからみんな持つ。そんなことまで毛嫌いする大人は、戦前に受けた教育の影響が残っているのではないかと、当時は思っていました。そういった性的なエネルギーは全部、戦争に向けさせられていたのかもしれません。ぼくは欧米の映画が子供の頃から好きで、軽いエロチックコメディー作品はいくらでも見られたんです。

 常識をひっくり返したところから、ギャグは出てくる。だから世の中を逆さまに見てみようと考えていました。当時、教師は絶対的で、立派な存在と思わせられていた。そこを、実は最低の人間という設定にしたらどうだろうかと。実際、中学校には今でいうセクハラ的なことをする教師もいましたが、教師は偉いという意識があるので誰も訴えなかった。そうした場面を目撃していたので、ろくなもんではない教師もいるのだと思っていました。教師を面白く表現するため、立派なネクタイ姿のファッションを崩したら本性が描けるのではないかと思い、ヒゲゴジラを原始人みたいな格好にし、さらにお尻も出させた。文字で説明するのではなく、視覚でわかりやすく表現したのです。そういう教師が生徒とかかわったら、(作中で)勝手に悪いことをしてくれるようになった。

 《47年初頭には、連載が「ハレンチ学園」(ジャンプ)「あばしり一家」(チャンピオン)「オモライくん」(マガジン)「あにまるケダマン」(サンデー)「がんばれスポコンくん」(キング)と、週刊少年マンガ5誌を制覇する快挙を達成。超売れっ子になった。平成30年、これまで描いた全作品に対して、日本漫画家協会賞文部科学大臣賞が授与される。そのスピーチで「全国の小・中学校図書館にハレンチ学園を置いてほしい」と怪気炎を上げた》

 半分冗談で言ったのですが、「つるしあげられるほど悪いものを描いていないのに」との思いはあった。そうした作品が「画業50年“突破”記念 永井GO展」で上野の森美術館(東京・上野公園)に展示される。当時は「大人たちの冷たい視線にも負けないぞ」と、頑張って描いていました。大人が訪れる美術館に飾られるのは感無量です。

(7)「デビルマン」悪魔がテレビに(2019.9.8)
 苦労しましたし、その後の作風の転機になったこともあり、印象深いのが「デビルマン」です。ストーリーものをやりたいと思いながらギャグでデビューしたため、しばらくギャグマンガ家のレッテルがついて回り、ハレンチ学園がヒットすると、今度は「色っぽいものをよろしく」となり、ストーリーものはなかなかやらせてもらえなかった。

 あるとき、アニメ制作会社のプロデューサーから「悪魔が登場するテレビアニメができないか」と依頼があった。テレビに合うのかなと思いながら企画書を作りました。「悪魔を人間ぽく」「アメリカン・コミックみたいなキャラクターに」など注文をつけられて1年半後、実現することになった。ただし雑誌でのマンガ連載も条件でした。

 《デビルマンの原作マンガは昭和47年に週刊少年マガジンで発表。先史時代の地球を支配していた先住民デーモンと合体した主人公の不動明は、悪魔の力と人間の心を持つ戦士デビルマンになった。人間を守るためデーモンの刺客と戦うが、疑心暗鬼に陥った人間によるデビルマン狩りが始まる》

 デビルマンを始めたころは4誌に連載しており、何かやめないと手がまわらない。(永井豪ファンクラブ初代会長で)作家の筒井康隆さんが絶賛してくれた「オモライくん」という浮浪者が主人公のギャグマンガも連載していたのですが、汚さのネタが限界に達していた。新しいものに移りたいとマガジンの編集長に断りを入れ、同誌で「デビルマン」を描くことになったのです。ギャグで人気を取れるのに、なぜストーリーものにいくのかと疑問視されました。

 アニメは小・中学生向けだけど、マガジン編集部からは「大学生も読むから、大人も納得するように人間ドラマをしっかり描いて、キャラクターも違うものに」と注文された。マンガ連載が先でアニメは後から始まった。同じタイトルですが、ストーリーも変わっていきました。

 描いているうちに、戦場で武器を持たされて敵を殺すよう命令された兵士を「悪魔」と抽象的に表現しているのだと気づき、未来の戦争を描いているのだと思いました。戦いのエスカレートが最終戦争を招く、破滅につながるというメッセージを込めました。

 《依頼があったのは前年、「魔王ダンテ」という作品を発表していたから。氷中に眠る巨大な悪魔と遭遇した夢を見た主人公の高校生、宇津木涼が魔王ダンテのいけにえとなって一体化し、人間界に潜む悪魔ハンターとして闘う物語だが、連載していた雑誌(週刊ぼくらマガジン)が休刊し、未完に終わっていた》

 幼少期に読んだ「こどものダンテ 神曲物語」という本にあった、氷漬けになった悪魔が3人の極悪人をかじりながら生きていく話を思い出した。初めての連載ストーリーマンガでページ数も多いけど、悪魔の大きい絵を描けば持つかなと思っていました。神と悪魔という価値観の逆転は、その後の作品のテーマになっていきました。

(8)渋滞ヒント「マジンガーZ」誕生(2019.9.10)
 《「デビルマン」の連載が始まって4カ月後の昭和47(1972)年10月、週刊少年ジャンプで「マジンガーZ」の連載がスタートした。同年末にはフジテレビ系でアニメ放送もされるようになる》

 小さい頃から手塚治虫さんの「鉄腕アトム」や横山光輝(みつてる)さんの「鉄人28号」を読んでおり、ロボットは少年マンガの王道で「一度は描かなければ」と思っていた。でも自立型ロボットはアトム、ラジコンで操縦するのは鉄人28号でマネになる。ほかの設定はないかと考えていたとき、渋滞する車列で横断歩道がふさがれ、青信号なのに渡れないことがあった。「これだけ詰まっていると後ろの車はまたいで進みたいだろうな」と考えていると、車から足が出て立ち上がるイメージが思い浮かんだのです。車を運転するように、人がロボットに乗って操縦するのはどうだろうか。大発明でした。

 《人が搭乗してロボットと一体となって戦うマンガは世界初だったという。全長18メートル、超合金Zで包まれたボディーは、神にも悪魔にもなれるほどの力を秘めた魔神だ。作品では祖父の兜十蔵(かぶと・じゅうぞう)博士がつくったマジンガーZに乗り込んだ孫の甲児が、ドクター地獄(ヘル)の送り込む機械獣を倒すため、果敢に立ち向かう。「巨大ロボットものマンガ」という分野を切り開いた》

 ロボットがあまりに巨大になるのは本当にいいことなのかを考えてほしかった。操縦方法がわからず最初は暴走するけど、敵が現われることで「日本を守るんだ」という自覚が生まれる。自分のエゴのために暴力をふるうことは反対だが、何かを守るために戦うことは許されるのでは、と考えました。ロボットを遠隔で操縦する者は、安全なところにいる司令官と同じで、自分には合わないと思った。マジンガーZはロボットに乗って戦うのだから、自分も死ぬ可能性がある。ロボットを操縦するということには、それだけ大きな責任がかかるということを感じてほしかった。

 《続いて執筆した「グレートマジンガー」は昭和49〜50年に雑誌「テレビマガジン」(講談社)に、さらに50〜52年には同誌に「UFOロボ グレンダイザー」が連載された。「マジンガーZ」は1975(昭和50)年のスペインをきっかけに、欧州各地でアニメ放送されるようになった》

 アクションがあってロボット同士が破壊し合うというのが欧州では驚かれた。しかも少年が搭乗して操縦し、大人がびっくりする力を発揮する。欧州では頭をおさえつけられている子供が、早く大人になりたいという成長マンガとしても読まれたみたいです。

 スペインで「マジンガーZ」の放映が始まって1年後くらいに、フランスで「グレンダイザー」の放映が始まった。「ゴルドラック」というタイトルだったが、これが社会問題化した。「子供がロボットを扱い、敵のロボットを破壊するようなアニメを放送していいのか」という論争です。その論争で大人たちにも知られるようになりました。欧州では「ゴルドラック」1本あれば、ほかのロボットアニメはいらないといわれていたらしいです。「ゴルドラック」はその後、たびたび再放送され、今でもファンがいます。

 1988(昭和63)年に映画祭の審査員としてフランスに招かれたとき、現地の記者が「日本人はエコノミックアニマルで、金もうけしか興味がないと思い込んでいた。しかしゴルドラックを見て、自分たちと同じ感情を持った熱い血が流れているのがわかった」と言ってくれた。以後は日本のアニメを伝えようと、サイン会などで二十数カ国を訪れた。当初、ぼくのことを知っている人はごく一部だけでしたが、今ではイタリアに行くと「マエストロ」(巨匠)なんて呼ばれてしまいます。

(9)石油ショックでページ半減(2019.9.11)
 《「デビルマン」「マジンガーZ」とアニメ番組とのメディアミックス作品をヒットさせ、昭和48(1973)年に週刊少年チャンピオンに発表したのが「キューティーハニー」だ。美少女アンドロイド、如月(きさらぎ)ハニーの活躍を描く変身アクションでアニメとともに、映画化もされた》

 アニメ制作会社のプロデューサーから「得意なものをどうですか? エッチなあれを」と言われてまして…。「テレビだから制限あるんでしょ?」と答えたら、「変身ものなんかどう?」との提案でした。映画やドラマになった探偵もの「多羅尾伴内」シリーズの七変化がイメージにあったのかもしれません。女の子が主人公なら、ふつうに変身するのではつまらない。一瞬、裸が見え、あとから衣装がついてくる変身ならテレビアニメでも大丈夫かな、と思いました。主人公に色っぽい要素があれば、戦うたびにオッと目を見張ってくれるはず。敵のパンサークローも女性だらけにしました。男性向けに作ったつもりが女性ファンが多くついてくれたんです。一瞬でファッションを変えられるところがよかったのかな。

 《「ハニー」の前に週刊少年チャンピオンで連載していたのが「あばしり一家」。ハニーや、悪馬尻(あばしり)家の長女・菊の助が名前を変えて登場するのが、同年に始まった「バイオレンスジャック」。複数の永井作品のキャラクターや設定がパラレルワールドのように登場する「スターシステム」を大いに活用した》

 スターシステムは手塚治虫先生が早くから用いていた。それぞれのマンガのキャラクターを別の側面で描けないか、と常に考える。視点を変えて登場すれば、まったく違ったストーリーができあがるのではないか。「バイオレンスジャック」では各キャラクターが背負っている世界まで引っ張ってきて描きました。前の作品と、つながりを持たせられたらいいなと。

 《「バイオレンスジャック」は関東地方に大地震が起こり、周囲から隔絶された無法地帯にさまざまな強者が現れて戦国時代になっていく一大SF叙事詩。永井作品に登場したキャラクターが勢ぞろいし、インターバルを挟んで、雑誌を変えながら連載された》

 遠大な計画を立てていたが、石油ショックで紙の価格が暴騰、雑誌は薄くなり、1話でボクが使えるページ数も12枚程度に半減してしまった。スケールの大きい話なのに1話では起承転結を描けず、読者はわけがわからなかったことでしょう。週刊少年マガジン、月刊少年マガジンと移って、5年間ほどあいて週刊漫画ゴラクに7年間描き、平成2年に完結しました。

 《その後、9〜10年にかけて発表した「豪談」シリーズは、講談集「立川文庫」にある物語をベースに新解釈を加え、猿飛佐助や雷電為右衛門らを仲間とともにコミカライズ(漫画化)した》

 英雄をとりあげた「立川文庫」は子供のころによく読んでいた。落語だけでなく浪花節や講談はラジオでもよく聞き、父親が語り聞かせてくれたから、なじみはあったんです。長兄が戦前から「キネマ旬報」をずっと定期購読しており、映画は見なくともシナリオを読んで中身を想像したりしていた。そんな経験も役立ったのかな。

 《昭和44年に設立したダイナミックプロダクションでは、現在は弟の隆さんが社長を務め、次兄、三兄も携わっている》

 出版社やアニメ制作会社、おもちゃ会社などとの折衝をやってもらえたのは助かった。(経営が)いいときも悪いときもあったけど、マンガを描くことだけ考えればいいようにしてくれたのは、兄弟のおかげですよ。

(10)新しいもの、つくりだす気概(2019.9.12)
 《平成17年度から29年度まで大阪芸術大学キャラクター造形学科の教授として、学生を指導した。文化庁メディア芸術祭や各種漫画賞の選考委員、審査員も引き受け、後進の育成に当たってきた》

 大学で教えたことはマンガ家としての心がけとか発想法、いかにイメージするかということです。たとえば「山へ行った場合のシミュレーションをしなさい」と課題を出します。歩いて景色をみて、雨に打たれて…そこからどうなるか、過程を想像することが大事なのです。キャラクターを設定したら、描くその時代でどう生かしていくか、糸をつむぐように物語を作るのがマンガを描くということです。

 舞台となる場所に行き、体験すればイメージは広がる。マンガ家を目指す人はどちらかというと内にこもりがちな没頭するタイプが多いので、社会に出ていろんな経験をしたほうが作品にも反映されるはずだと思います。もちろん江戸時代には行けないので、どんな生活をしていたか、想像力を働かせることも大事です。京都アニメーション放火事件で、多くの優秀なアニメーターが犠牲になったことがかわいそうで仕方ない。いい作品を作ろうと、コツコツと頑張ってきたのに…。

 《マンガを読む愛好者は多いが、マンガ家を目指す人も多い》

 雑誌など紙媒体が弱くなっているので若い人は大変かもしれないが、電子書籍などは広がっています。電子媒体だと国内にとどまらず、海外へも発信できる。そう考えれば発表できる媒体は、ぼくがデビューしたころの100倍かもしれない。海外から「アシスタントになりたい」との問い合わせがたまにありますよ。

 状況や感情を表現する「ウワァー」など擬音語や擬態語は、海外では「Whooo」など現地の言葉に書き換えられていました。ところが最近は、セリフは翻訳するのですが、(背景の)描き文字は日本語のままがいいというケースも増えてきました。日本のマンガ文化が海外に浸透してきたということでしょう。フランスに行ったとき、「バンド・デシネ(フランス語圏の独自マンガ)を描く気はないか」と質問されたこともあります。チャンスがあれば、やりたいよね。

 《「ハレンチ学園」「デビルマン」など連載を抱えるようになってからは、雑誌の担当編集者と意見がぶつかることもたびたびあったという》

 編集者とやりあって、いつも折れているようではマンガ家はやっていけない。雑誌の要望に自分の意見をどう組み入れていくかが大事。ぶつかることも多いが、年齢を重ねてからは編集者の意見も聞くようにしている。自分の意見に固執するわけではなく、読者と年齢が近い人(編集者)の意見も聞くべきだとね。

 マンガ雑誌は読者アンケートでいつも人気が問われる。年間を通して全然ダメだったときや、読者が作品に飽きていなくなったことも何度かあった。去っていったお客さんを呼び戻そうと、頑張ってきた年月だった。トイレの中で読むことがあるほどSF小説が大好きですが、それだけではなく、推理小説を読んでストーリー展開の参考にしようとしてきた。こういう違う要素もありますよ、と編集者に示すために。何か新しいものをつくりだそうという気概が必要なんです。(聞き手 伊藤洋一)

(11)同業者、編集者、読者…みんな先生(2019.9.13)
 《ビッグコミック(小学館)で平成26年から、「デビルマンサーガ」を連載している。若きロボット学者、不動勇希が2万年前の南極の氷から発見された「超古代の壁画」と「悪魔の鎧(よろい)」に魅せられ、鎧を装着して歴史を覆すような超科学を体験していく。「デビルマン」の戦いをあらためて描く、壮大な物語だ》

 「デビルマンサーガ」では中国とにらみ合っているような状況も描いていますが、現実ではなく、ファンタジーの世界でのことです。現実の世界で生きているので、いろんな情報が影響するのは仕方ないのですが、作品では現実とは関係のない世界を表現したいと思っています。

 世の中はいま、いい方向に向かってないようにみえます。本当はデビルマンのように暗いタッチのものよりも明るい作品、ばかばかしいギャグのほうがいいかなとも思う。デビルマンのイメージがついて、デビュー当時とは反対にギャクものの依頼がなく、描いていませんが…。高齢者が増えているので、彼らがラクに生きていけるようなマンガを描いてみたいです。シビアでなくても人間生きられるよ、と。

 《徹夜が当たり前だったアシスタント・若手時代とは違い、現在は規則正しい生活を送っている》

 朝7時には起きて体操し、自宅の専門チャンネルで映画を見て、午後から夕方までマンガを描き、食事してまた映画を見る。いろんなものを吸収し、何でも経験することが創作の原動力かな。今年7月にジャパンエキスポでフランスへ行ったとき、空き時間を利用して美術館を巡りました。ルーブルやポンピドー・センターなど大きなところは行ったことがあるので、ピカソ美術館とか、個人美術館のギュスターブ・モローも見に行きました。映画は往復の航空機のなかで一睡もせず、6本ずつ見ました。日本にいるときは週に1、2回は映画館へ行ってますね。

 《「デビルマン」などヒット作の裏側を描いた「激マン!」シリーズが単行本になっている。「ノンフィクションにきわめて近いフィクション」と銘打つ》

 過去はそれほど振り返らないのですが、「激マン!」を描くために当時を思い返すと、そういえばつらかったなあと感じます。済んだことは次々に忘れ、ストーリーをどう展開しようかと、明日のことしか考えていないんです。画業50年以上となりましたが、その蓄積がのしかかってくるようなことはゼロですね。アイデアは机の前で、白い紙に向かえば出てきます。「デビルマンサーガ」もネタが苦しくなってきたなあと思うと、自然にアイデアが出てきてくれる。苦労したことはないんです。

 マンガ家は世の中に何かを投げかける仕事です。自分一人でやろうと思うなら、インターネット上での連載も視野に入れたほうがいいのかもしれない。雑誌に描けるのは、編集者や読者の要望があってのことですから、彼らの希望に添いながら、どう自分のアイデアを入れていくか考えながら続けてきました。思ったより売れなかったら、「編集者のアドバイスを聞いておくべきだった」とか、「いまの読者は何を求めているのか」と思いを巡らせます。ほかのマンガ家は、ライバルというよりも先生で、参考にしています。漫画賞の選考委員をしていたときは、アイデアに感心しながら候補作を見ていました。編集者や読者も、みんな先生です。私は描いていないと、エネルギーが余ってしまい、退屈してしまいそう。マンガの世界に没頭していると、自分が登場人物になる。現実の時間よりずっと楽しいんです。

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